「日本におけるドイツ年」の旅 第一弾                      2005・3・20〜23  一ノ瀬義昭・孝子
2005年〜6年は「日本におけるドイツ年」、その先駆けとして2005年3月20・21日にサントリー小ホールでジョシュア・リフキン指揮・チェンバロのバッハの結婚カンタータ3曲の演奏会がある。
これを聞くのを主目的に、地下鉄サリン事件10周年にあたる3月20日曇り空の長崎空港を10:42離陸のJAL1842便のエアバスA300−600のクラスJで、昨年夏の北海道行き以来の上京。
この日、関空からはKLMのアムステルダム行きで松平悦子さんが帰国し、成田にはカンタスでシドニーのブレア照子さんが着陸する予定。この二人は全く似ていないが、共に外国人と結婚して日本国籍を離れ、子供3人、背が低い、オーバーステイの前科持ちという共通点がある。悦子さんは今は廃止になったハーレム郊外ヘームステーデの天理教会に泊めて頂いて以来の友人、照子さんは孝子が1965年の訪豪の6ヶ月の間に出会った唯一の日本人、この所毎年来日されて、我が家に滞在することとなっていて、今年も4月2日から9日まで我が家に滞在。
座席のイヤホンでラジオを聴いていた孝子が、「壱岐に津波って言いよる」という。アテンダントに聞くと、黙って頷く。福岡上空にかかっている10時53分頃、薄雲の下の世界は玄界灘地震に揺れていたわけ。
帰ってから、福岡の皆さんに電話して安否を訊ねたら、福岡市東区の灰瀬さんは、被害は内装の壁紙が一部剥がれ、庭の蘭鉢が割れた程度で済んだが、その瞬間は立って捉まるのがやっとで、頭は真っ白、思考は中断したそうだ。妻の量子さんがしがみ付いて来たので、久し振りでヒシと抱き合ったとか。
黒田(岩松)真子さんは、頭部のヘルペスで頭痛がするので、耳を下に横になっていたら、地鳴りが聞こえ、耳鳴りするようになったかと思い、揺れ出したら眩暈も始まったかと思ったそうだ。
滑石の姉は寝転んでいて、「なんやら揺れよるごたるね」と思ったそうだ。森草一郎さんは神代に行くために、諫早駅で発車待ちの島原鉄道に乗っていて、「走りよりもせんとに、この車はえらいよう揺るっね。」と思い、妻の重子さんはお茶のお稽古に行っていて、着物姿で這いずり回ったとのこと。
ラジオを聴いていたら福岡の人には悪いが、羽田に着くまで全く退屈しないで済んだ。富士山が綺麗。
JALも貧乏なのだろう、大きな赤い尾翼以外にも虹のJASのや、鶴丸印がまだ同居。スターアライアンスというあまり見かけない紺に星の機体はANAの飛行機。今度乗るルフトハンザもこのグループ。
リムジンで新宿西口の京王プラザホテルへ向かう。休日とて首都高も空いていて30分で着く。
35階のエクゼクテイヴ・フロアは、プラザ・プレミアといって、ヨーロピアンコンテンポラリーのデザインで統一された「満足と典雅のエリア」に全面改装され、昨日から供用開始されたばかり。
直線的で簡素な中に、重厚などっしりした、居住性のよいゆったりした部屋になっている。3506号室、ドアはカードをタッチするだけで開錠できるし、壁掛けテレビが部屋を更に広く見せ、CD・MDプレーヤーも備え付けてある。
少し大きすぎる恨みはあるが、ベッドやソフアの家具は肌触りも素晴らしいし、リネン類も上質。廊下からの騒音も殆ど聞こえない。広いガラス窓の遮光カーテンは、ベッドサイドのパネルのボタン一つでワンタッチで開閉できるし、高速インターネットが無料で接続できるターミナルも付いている。電波時計もさりげなく置かれている。
今回は飛行機がマイレージの無料サーヴィスなので、ホテルの朝食は付いていない。それで西口の京王デパートに出かけ、地下のフォーションのパン・ド・カンパーニュ、マキシムド・パリのケーキを買う。何のことはないパリのマドレーヌ街。他にはバナナと小岩井農場の牛乳と十勝のスライスチーズとボンレスハムを買って、往復地上を歩いてもどる。

今回は12月まで有効のマイレージで、3月に日程変更したので再変更が出来ず、19日の皆川達夫さんの出版祝賀会も、24日の「バッハへの旅」説明会にもファウルチップとなった。
TVニュースの地震被害が次第に具体的に報道されてくる。住吉神社も壊れていて、天神の福岡ビルのガラスが落下しているのが写っている。
7時半過ぎにNHKに娘、尚子が泊まりにやって来る。提案から音入れ完成まで、初めてディレクターとして1本を任されたNHKTV「地球ふしぎ大自然」の「疾走する猿パタスモンキー」の撮影で40日間中央アフリカのカメルーンに滞在。
元気そうな顔は全く日焼けしていない。聞けば、現地はすごい乾燥と50℃の高温で、肌を曝すと忽ち水分が奪われるので、ターバンを巻いて目だけを出してしっかり防禦していないと、生きていけないそうだ。水分だけでなく塩分も体が要求するので、紫蘇のゆかりやお茶漬け海苔を水に溶かして飲んだのがとても美味かったらしい。
ムスリム地域なので食べるのは牛肉ばかりでと言っていたが、夕食は結局7階の和食の「しゅん」の米沢牛と都城黒豚の「しゃぶしゃぶ」となる。昨年は乳白色のそばつゆの鍋だったお思うが、今年は水からだ。
撮影地のカメルーンの北東端に位置する、カラマルア国立公園の川向こうは、紛争地のチャドなので、そちらの方にレンズを向けたら狙撃されるかもと脅されたり、皆が目を剥くほどの現金を尚子が管理しているのを、絶対に人には悟られないようにするのにも神経を使ったという。満足とまでは行かないが、「パタスモンキー」はチャンといたそうだ。

21日は快晴で気温も急上昇とかで長袖の下着を脱ぐ。新宿駅南口までタクシーで行き、NHKに出勤する尚子と別れて、埼京線で赤羽へ。北区西が丘の西野の姉が、C型肝炎のインターフェロン治療から奇跡的に快癒した顔を見にいく。
玄関を入ると、私等の声を聞きつけて、以前のような元気そうな姉の声が上から聞こえて驚く。昨年夏に見舞いに来た時と全く別人のような回復振りだ。不思議なのは当人は容態が悪かった時の事は全く記憶にないし、私等が見舞いに来たことも覚えていない。
仁博兄はペースメーカーの調子も良いようで、久しぶりの中国への3泊4日の旅。何やら凄い荷物だったらしい。北京放送の陳真さんは膵臓癌で昨年亡くなったが、夫の馬忠泰さんは元気で、今は第二夫人がちゃんと付いているそうだ。
甥の仁樹夫婦は次女史子の高校の卒業式に出かけ、隣に住む姪の大滝佐和子と景子、雅子、華子の三人娘が相手をしてくれる。両家とも次女が受験だったが、芝浦工大と千葉大に目出度く現役進学。
寿司のお昼をご馳走になって、王子に出て南北線で六本木1丁目へ、王子以外はバリアフリーで助かる。アークヒルズのサントリ−ホールは近いが歩かねばならない。
開場前だがトイレを借りて、大ホールの読売日響のコンサート・オペラをドア越しに聴いて、ロビーの階段を野村沙知代さんが威張って出て行くのを見る。
小ホールと言うものの、ステージが狭いだけで割りに大きい、フラットなシューボックス型のホールの後ろの席。木製の椅子が動かないように、木組みで連結されている。前の招待席らしき椅子が少し空いている以外はほぼ満席。
知った顔は見なかった。雑誌か何かで見た顔の評論家と思ったら、このコンサートの音楽監督の磯山雅氏だった。
“消えよ悲しみの影”BWV202,はエンマ・カークビーの名唱で有名だが、今日のソプラノの藤崎美苗は素直で素朴だが、もう少し表情が欲しい。“おお良き日、待兼ねし時”BWV210のソプラノ佐竹由美は時々高声部が暴れる。
器楽のアンサンブルはなかなかに宜しい。音の厚みを要求しない曲だけに、それほどに違和感はない。磯山雅氏の

解説のあと、“充たされしプライセの町”BWV216の上演。今日はバッハの420回の誕生日。
この曲の自筆のスコアもパート譜も失われ、ソプラノとアルトの声楽譜のみを、C.P.エマヌエル・バッハが相続し、メン
デルスゾーンの遺族が所有していた所までは判っていたが、それ以後1世紀の間、行方不明とされていた。
当初はバッハの自筆譜とされていたのが、どうやら弟子のC.Gマイスターの手になる浄書譜と決まり、価値が下がったらしく、それ以後の所在が不明となったまま、90年を閲した。マイスターの筆跡は勢いと言い、美しさと言いバッハにそっくりだそうだが。
幻のこのパート譜が、ピアニスト原智恵子さんの遺品のショパンのピアノ協奏曲の楽譜に、大切に挟込まれていたのが、昨年発見された。おそらく夫のガスパル・カサドからの結婚プレゼントだったのだろう。
念のためにバッハの筆跡研究鑑定の大家小林義武氏に再鑑定が持込まれたが、やはりマイスターの写譜であること、書込みの字もバッハではないことが確認され、国立音大が所蔵することになった。
残されたこのソプラノとアルトの声楽譜2曲分を手がかりに、資料に残された他のカンタータからの流用部分の再現、手がかりのない器楽の前奏の創作、通奏低音の書き入れを、現代のバッハ様式への知見で埋めて、復元してみようという試みが、アメリカのバッハ研究者でチェンバロ演奏の大家であるジョシュア・リフキンに依頼された。
ジョシュア・リフキンは、「ライプチヒのバッハは経費削減のため通常のカンタータ礼拝では独唱と合唱を区別せずに、独奏と合奏も兼用で演奏していた」との説を立て、近頃注目されている。
復元の出来栄えは、前二つの有名なカンタータと比べても可笑しくない、テレマンでもなければましてやヘンデルでもない、まさしくバッハに一番近い曲となっている。
殊に通奏低音は、アレマアと思わせるほどバッハである。ただ合奏協奏曲とソロ・カンタータが合体したような豪華絢爛の大判振舞いが、ちと気にかかる。しかし、いずれにしても楽しいコンサートだった。スエーデンのソプラノ、スザンヌ・リディーン、ノルウェーのアルト、マリアーネ・ベアト・キラートも立派。
コンサートのあと、小学校の同級のリビョゥヴィ・シュエツ(リューバ)さんを西麻布の家に訪問、ここで5ヶ月ぶりに良知と落ち合う。三鷹のオフイスと八千代の家とで、なにやら余りお金にならない仕事をしている。30日にオランダに確定申告に行かねばならない。
六本木交差点の側の、俳優座の角を入ったレストラン「ルスカヤ・トロイカ」に一緒に夕食に行く。コックがグルジア人だそうで、なかなか美味しい。オーナーのアナニエワ・イリーナさんはリューバの娘のエカテリーナ(カーチャ)と一緒にシュエツ家の別棟に住んでいて、23日から1週間モスクワにカーチャと一緒に行くそうだ。良知が9月に帰国した時に、イリーナさんのモスクワ行きの間のこの店のマネージメントを頼まれたが、毎日勤務は他の仕事が出来ないと断った。
六本木ヒルズでのアルマーニの展示会のために、ベルリンから来たばかりの一文字佳恵さんが「トロイカ」に訪ねて来て、リューバさんの怪気炎に、久し振りに日本人に会ったと喜ぶ。彼女はアムステルフェーンの「たぬき」での良知の同僚で、テンカーテのアパートの下の階に住んでいたが、部屋が売れたので市役所から追い出された。彼女はつい先日の深夜にうちに電話してきて、良知の所在を訊ねていた。
明日はモスクワから遠藤ユーリ君が来るそうで、良知も来客で忙しそうだ。ユーリは今すごい金持ちになったらしい。
9時過ぎに「トロイカ」を出て、六本木の地下鉄大江戸線ホームまでエレベーター3本を乗継ぎ、芝大門で都営浅草線に、青砥で京成快速に乗換えて、京成八千代で降りて、タクシーで八千代台北17の清水さんの家にいく。同居の清水リ

ョウ君はアムステルフエーンのたぬきで私と会ったそうだ。目のくりっとしたハンサムボーイ。
古い住宅団地で道幅は少し狭いが、ゆったりとした広い一戸建ちがずらりと並んでいる。
持主の清水夫妻は1年の予定でアムステルダムに行ったまま、30年間帰らず、貸していたそうで、それも空き家になって1年半無人のままで、昨年秋に良知が1年の予定で帰国する間、無料でして貸してもらい、それを追いかけるように夫妻が帰国されて、良知がジャパンレイルパスで全国周遊している間に、全面的な改修を済ませて、オランダに帰ってしまったそうだ。それで汚くして住む積りの良知が困っている。
お蔭で、私のが杖をトイレに忘れたり、孝子がスラックスを風呂場に置いたままにしていたら、早速、「りょう君に親がこげんやけんて思わるるとよ」とたしなめられる。男のくせにわりとうるさい。
尚子も良知も、欧州まで5月のライプチヒ行きの飛行機は大丈夫かと心配してくれる。「歩いて回るより、座っとる方が楽さ、ハワイにも行けたし」と答える。良知は、「杖ついとると、こっちの人は親切か?」と聞く。「みんな親切かよ」と答えると、「向こうの人はもっと親切かろうバイ、楽しみにしとかんね」という。A’damから「空気の乾いて気持よか」とメイル。

22日は曇りのち雨。昼までゆっくりして、家の探検をしたりする。30数年前に建てられた家としては驚くほど斬新な洋風建築だったのが窺えるが、とても綺麗になっている、良知の部屋の壁は自分で塗ったらしい。二階には洗濯場はあり、窓には鎧戸が残っている。
オランダ生まれの次男、清水りょう君が、日本で何年か生活してみたいとかで、思立たれたのだろう。
そのりょう君が買って来て3日目のホンダアコード、まだ3千`しか走ってない4DWの3ナンバーのセダンを借りて、雨中のドライヴにでかける。彼はこの車のために、朝早くから夜遅くまで働く羽目になったらしい。
佐倉の川村美術館、歴史民俗資料館は休館日、臼井、酒々井、成田を経て取敢えず佐原へ。サハラかサバルかサワラと読むのかも知らなかったが、なかなか風情のある町のようだ。「草だんご」と「すずめ焼き」を買い損なった。
佐原は利根川水運の要衝として栄えた歴史を、運河沿いの古い町並みにとどめる。関東平野の豊かな物産を背景に、大消費地江戸を控えての酒、醤油などの醸造業でも栄えた町。伊能忠敬も庄屋と酒造業を営んでいたが、全国測量費用の前半を自前でこなした財力からも、その豊かさは想像以上だ。香取神宮もある。
馬場本店の最上白味醂と清酒を買う。この店は松たか子の映画「凛」のロケ地にもなったそうで、背の高い立派な2階建ての土蔵もあり、勝海舟が知人で幕末に滞在したそうだ。水郷潮来と一緒に成田のトランジット客の短時間観光ツアーのコースにもなっている。
帰りは香取ICから東関東自動車道に乗り、千葉北・八千代ICで下りる。1500円。成田から先の3車線の自動車道は流石にダイナミック。走行車線にしようかな?追い越しに移ろうかな?」と考えていたら、カーナビが突然「車体がすこしゆれています」と警告するのでびっくり。後方のカメラでバックも誘導してくれる。ピカピカのアコードは、操縦の優しさ、加速もスムーズで、乗り心地、安定性も抜群。

23日は一日雨。良知と一緒に地下鉄東西線へ繋がる東葉高速鉄道の八千代中央駅へタクシーで行く。新しい駅でピカピカだが料金が高い。気付かぬうちに尚子のいる南行徳も通過、大手町で三鷹へ行く良知と別れて、エレベーターとエスカレーターで難なく丸の内北口へ。旧国鉄本社跡の「丸の内オアゾ」のロビー10:30に着く。丸善丸の内本店で陳真さんの本を検索して持ってきてもらう。4階のレストランには、早矢仕有的創案の本家ハヤシライスがある。ショウケースを見ると、食器は我が家にあるものと同じ金彩紺色の「ノリタケ」。7階から上は「丸の内ホテル」が復活して入っている。
霧雨に煙る「丸ビル」を遠望する。
磨きたてた通路から、キンダーコップの床のロビーに出て、つまずきそうになるが、タタラを踏んで止まる。
横浜の竹内俊晴さんは京浜東北線の電車の故障で時間ぎりぎりに現れる。5階のレーベンブロイのドイツ家庭料理「つばめキッチン」で子羊のカツレツ・マスタードソース添えの昼食を注文したところに、森下(原)礼子さんが来る。彼女はハヤシライスを取って、しばらく歓談した後、地下のイタリアン・ジェラードに席を変えてデザートにする。何のことはない三国同盟。「つばめキッチン」はアイスバインもあるし、値段も銀座並木通りのケテルと比べて半値である。これは「日本におけるドイツ年」お勧め。
以前、尚子が大手町から東京駅に行くには、どうしても地上に出ないと駄目と嘆いていたのが、今はそのまま行ける。
この所、リムジン・バスか京浜急行ばかりなので、久しぶりにモノレ−ルに乗る。芝浦工大の看板を見て、西野のフーちゃんは春からここに通うのかなと思う。
羽田空港第一ビルはあまり変ってない。JALで九州への人は、モノレールは後方の車に乗るのが良い。
車椅子を借る。空港のバリアフリーは更に進んでいるし、JALの人の対応も更に親切になっている。佃煮、わさび漬けに「ずんだ餅」を買う。節食中の滑石の姉への土産は漬物。
17:55離陸のJAL1853便のA300-600で、羽田空港限定空弁「アナゴの羽田弁当」、「味めぐり」を食べて、19:41着陸、雨上がりの21時前に帰宅。心配していた塀の上のムスカリの鉢も落ちないで満開。留守電には旅に出ると教えたのに、ブレアさんからのが何本も入っている。地震の影響で目に見えるものは、二階のベッドに立て掛けられたベーブルースの写真パネルが倒れていただけ。
「日本におけるドイツ年」の旅 第二弾 「バッハへの旅」予告
5月3日昼成田発ミュンヘン行き、12日フランクフルト発、翌13日早朝成田着のルフトハンザでの、「バッハへの旅」という、同名の著書を2000年に上梓された加藤浩子さんのご案内で巡るバス旅行がある。
J.S.バッハが生涯を過ごしたチューリンゲン、ザクセンの、旧東独のごく狭い範囲を、ゆったりした日程と、音楽的には充実した内容の優雅なツアーである。熊本の泉博、美都子夫妻と参加する。私等にとって初めての団体旅行。ガイドが舛添章子さんなら更に嬉しい。
これがモーツアルトやヘンデルの生涯を追い掛けるのなら大変だ。1月やそこらで済むまい。
2001年12月6日のOPLLの頚椎手術の後、海外に出かけるのは、2003年秋のホノルルのハワイ・バリアフリー・ウオークへの参加に次いで二度目。良知はこの時期には再度日本に帰っているので、残念ながら阿蘭陀は割愛。
五月のドイツは、芽吹きの森をそよがす風と、新緑の草原にはタンポポ、濃緑の麦畑に黄一色の菜の花、道端の白い野生に近い美味しくない梨の花、家の後ろの斜面には少しピンクがかったリンゴや杏の花、そのほかサクランボ、アーモンド、八重桜、ライラック、リンデンなどが一斉に花開く一番良い季節、オランダのリッセほどではなかろうが、チューリップも咲いているだろうし、親指の太さの白いアスパラガスも、もうバイエルンあたりから届いているだろう。ザクセンにもフランケンに負けない赤の美味しいワインがあるそうだ。アイスバインにザワークラウトはあるかしら。
この前ドイツに居たのは2000年夏のライン下りで、左岸のボッパルトで下船。コブレンツからケルンへ。いつも愛用のICEエラスムス号で夕闇迫るアムステルダムへ向かった時だった。その前年はフリートリッヒスハーフェンで走った。
欧州共通通貨Euroを使うのも初めてのこと。体力・能力からも、恐らくこれが最後のドイツ訪問だろう。
ホテルは全部5星カ4星半で、J.E.ガードナー指揮 英国バロックソロイスツ、モンテヴェルデイ合唱団と、トーマス教会合唱団の共演の「マタイ受難曲」、H.ブロムシュテットの指揮、ゲヴァントハウス管弦楽団・合唱団のロ短調ミサがメインだが、ジルバーマン始めオルガンの名器が随所で聞けるし、最後のアイゼナッハのバッハ博物館でのクラヴィコードチェンバロ、ポジティヴオルガンのサロンコンサートまで、毎日どこかでコンサートが聞ける。
フェルメールの「窓際の女」などはドイツ年「世界の鏡」展で日本に来てお留守のようだが、ドレスデンのルネサンス以来の名画コレクション鑑賞も楽しみの一つである。プフンズ・モルケライにも行きたい。