Eine Deutschlandreise 2017 ドイツ旅行 (1/4)
ご覧になっているページ 2ページ目へ移動 3ページ目へ移動 4ページ目へ移動
Inhalt 目次
1 Bayern-Thüringen バイエルン~チューリンゲン
2 Der Harz ハルツ山地
3 Eifel アイフェル
4 Ruhrgebiet ルール地方
Überblick 概要
●中部ドイツをレンタカーで反時計回りに周遊する13日間の一人旅
●2017年春、ゴールデンウィークをはさみ単独で旅行しました。ミュンヘンを出発し、反時計回りに北上、ハルツ山地、アイフェイル山地などの国立公園を回り、デュッセルドルフから帰国へ。
●旅程の大半は、一般的な観光ルートから離れ全く個人的な内容なので、観光案内としては役立ちません。
●掲載写真は特記なき限り自撮り。右は見事な木組みの家々がアイフェルの真珠と賞されるモンシャウで。
写真1-0-1
お断り
情報はドイツ語のウェブサイトなどからも仕入れています。固有名詞等、日本語の定訳と異なることがあるかもしれません。そのためできるだけドイツ語も併記しました。
趣味のドイツ語により正確さは担保できません。その程度の語学力だとご勘弁を。
※印のリンクページは、別ウィンドウが開きこのサイトを離れます。
円表示は交換時のレート 約1ユーロ=125円で計算。
ドライブレコーダーの記録画像(以下「DR画像」と記載)に表示される日時は日本時間。現地時間はマイナス7時間です。
Reiseweg 行程
4/26 長崎~羽田ミュンヘン国際空港①ミュンヘン近郊1泊
4/27 ②ダッハウ強制収容所跡他③イエナ1泊 
4/28・29 ④キフホイザー⑤クヴェトリンブルク2泊 
ハルツ狭軌鉄道でブロッケン山へ、ハルツ国立公園
4/30 ⑥ベルゲン・ベルゼン強制収容所跡⑦ハーメルン1泊 
5/1 ⑧モンシャウ(アイフェル)⑨デュッセルドルフ1泊 
5/2
・3
⑧アイフェル国立公園ルーア湖2泊
ルーア湖遊覧船、ハイムバッハ散策他
5/4-6 ⑨ランゲン美術館⑩ケルン3泊 ドラマのロケ地探訪など
5/7・8 ドルトムント⑨デュッセルドルフ空港~成田~福岡~長崎
青は経由地赤は宿泊地緑は観光地など ドイツ地図
全て自前で組み立てた手配旅行
航空会社は全日本空輸(ANA)。乗り慣れてかつマイレージがたまる航空会社で毎年行っています。今回貯まったマイルを使い、ドイツへの特典航空券をゲット。
ドイツ国内はミュンヘンを出発してケルンまで約2,100kmをレンタカーで走行。そのため、この旅行記に出てくる「車」は、全て今回借りたレンタカーを指します。
宿は事前に日本からネットでホテルやアパートホテル(注)を予約
注:日本ではやりの「民泊」に相当し、家具・電化製品付きのウィークリー・マンション感覚で、1泊単位で宿泊可。
サービスエリア:SA、パーキングエリア:PA、ガソリンスタンド:GS、ドライブレコーダー:DRと略します。
1.Bayern-Thüringen バイエルン~チューリンゲン
4月26日(水)朝、長崎空港を羽田へ向けANA便で出発。約2時間の乗り継ぎを経て、12時半羽田を発ち、ミュンヘン空港到着は同日午後5時過ぎ。到着したらすぐにレンタカーで郊外へ走る予定。到着地ミュンヘンの天候予報は雨。予想最高気温4度、最低気温3度。出発時長崎の天気予報は雨、最高気温20度、最低気温16度なので、一気に九州の真冬に戻ります。
1-1 Bis München ミュンヘンまで
1-2 Hotel Gasthof Hainzinger ホテル・ガストホーフ・ハインツィンガー
1-3 KZ-Gedenkstätte Dachau ダッハウ強制収容所跡
1-4 Kloster Weltenburg ヴェルテンブルク修道院
1-5 Jena イエナ
1-6 Kyffhäuserdenkmal キフホイザー記念碑
1-7 Nachwort あとがき
1-1 Bis München ミュンヘンまで
●旅立ちは長崎空港から
写真1-1-1 搭乗便 写真1-1-2 ボンバルディアDGC-8-400
早朝自宅を出て、高速バスで長崎空港へ。案内板に、搭乗便は10分遅れの表示が出ています。搭乗口へ向かうと、平日の東京行きだからかスーツ姿のビジネスマンだらけ。
右:飛行機に乗り込むと、北側のスポットに長崎空港には就航していないボンバルディアDGC-8-400。調べてみると訓練で時々飛来するらしい。飛び立った飛行機は、あいにくの天候で雲の中を飛び軽く揺れがつづいている状態。定刻に着くとの案内がありました。
●乗り継ぎの羽田空港国内線~国際線ターミナル~機内
写真1-1-3 国際線乗り継ぎ 写真1-1-4 国際線連絡バス
左:羽田空港国内線ターミナルに到着し、ボーディング・ブリッジを渡ると、到着客は左へ。右の国際線乗り継ぎへ向かったのは、先を歩く女性と私だけ。閑散とした長い通路を、旅の高揚感に満たされて歩きます。
右:階下に降りると、国際線連絡バスが待っていました。
写真1-1-5 カレー南蛮そばと生ビール 写真1-1-6 搭乗便
左:昨年は1時間10分しかない乗継ぎ時間が、長崎での出発遅れで50分だけ。国際線の搭乗口へ急ぐと搭乗が始まっていてぎりぎりセーフでした。今年は定刻通り2時間15分の乗継ぎ時間があり、日本食とのお別れにカフェテリアでカレー南蛮そばと生ビール。
右:搭乗便は定刻に出発。
写真1-1-7 機内食 写真1-1-8 機内誌
左:羽田を飛び立って1時間。13時半頃、最初の機内食の「シーフードのトマト煮込み バジル風味」。ドイツ路線なのでメニューにはドイツ語でも書いてあります。「Geschmorte Meeresfrüchte in Tomatensauce mit Basilikumgeschmack」
右:機内では半年前に封切られたローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリーなどを見ました。最初はドイツ語吹き替え+日本語字幕で。できればドイツ語吹き替えだけでわかれば理想的だけど、日本語字幕を見ていると、なかなか難しいと感じます。二回目は日本語吹き替え+日本語字幕で見たものの、登場人物が多くていまいちよく分かリません。
写真1-1-9 機内誌
機内誌の「ANAグループ航空機のご案内」というページの右下に、なんとスターウォーズに登場するミレニアム・ファルコンが「機体サイズの比較として掲載しています。」との注記付きで掲載。左に掲載されている長崎空港で見かけたボンバルディアDGC-8-400(写真1-1-2)とほぼ同じサイズ。へ~え、ミレニアム・ファルコンって意外と大きいな。
●ミュンヘン国際空港
写真1-1-10 到着便 写真1-1-11 荷物受取場所
左:ほぼ定刻にミュンヘン国際空港に到着。ANAの機体とルフトハンザのロゴとの組み合わせが、ドイツに到着した実感
右:入国審査を過ぎて、手荷物の受取場所へ降りてきたのが、17時45分頃。来る度に広告の内容が変わる大きな電光看板が出迎えてくれます。
写真1-1-12 ATM 写真1-1-13 エアポート・センター
左:税関はフリーパス。「入国」して最初にする事は、ユーロを引き出すこと。次回の旅行のためにこのATM覚えておこう。
右:ターミナル2を出ると、ミュンヘン・エアポート・センターという大屋根が架かる大空間に出ます。この空港からイン・アウトする場合は必ず通り、印象に残る場所。1年ぶりに「来た!」という実感がします。
この後レンタカー会社のカウンターへ。車の鍵を受け取り、立体駐車場へ。最初に貸してくれたベンツは、ナビのカードが入っていなくてナビが使えず、カウンターへ逆戻り。そしたら外付けナビを貸してくれるという。シガーライターはDRで使う予定なので、別のベンツを貸してもらう。車に乗って契約書を見ると、盗難保険が0円。で、もう一度カウンターに戻って尋ねると、「フルカバーだから大丈夫。」とのこと。結局カウンターと立体駐車場を2往復半して、立体駐車場から出たのは19時25分頃。予定よりも30分以上時間を要してしまいました。
●車で宿へ
写真1-1-14 高速道路 DR画像 写真1-1-15 一般道 DR画像
左:空港を出発し、今晩の宿があるEinsbachアインスバッハまで約50km、30分の予定。空港から直結している高速道路に乗ると、雨の夕暮れで視界が悪く、最初は恐る恐る先行車に付いて走ります。対向車もヘッドライトを点灯しています。しかもウィンドウが曇りはじめ、エアコンを入れて除湿しようにも、停める場所もなく、走りながらの操作は、慣れない車だからどこにスイッチがあるかじっくり眺められないので、結局窓を開けて走りました。
右:宿に20時過ぎに到着する直前のDR画像。今回コースは間違えなかったものの用心しながら走ったので38分ほどかかって到着。
●ドイツ最初の「ディナー」はマック
写真1-1-16 イートイン 写真1-1-17 テイクアウト
宿を予約する時点で宿のレストランは、今日「水曜日」が休業との情報がありました。それで日本出発前に付近を検索したら、車で少し走るとマックがあることが分かり、少なくとも「絶食」だけは避けられる算段。
さて晩ご飯をどうするか。宿にチェックインし、日本から持参した付近の地図を示して尋ねたら、マックの先にイタリアンが2軒あるとのと。ただマックでさえ車で行く距離なので、イタリアンへ行ったとしても飲んで帰れないから、「ドイツビール」は諦めて、薄暗い中マックへ車を走らせました。
左:ドイツ最初のディナーは、悲しいなかビックマックと牛乳
右:マックのメニューに「ビール」がある! 一杯くらいはとの思いはありますが、旅行初日に何かあると、せっかくの旅行が台無しなので、テイクアウトでビールとチキンナゲットを追加注文し、宿へ持ち帰り。
宿への帰り道は真っ暗。日本でも知らない道を暗い中走るのはイヤだけど、こんな時間にドイツで車を走らせたのは初めて。まずは初日の行程を無事終えて宿に着き、ビールも飲めてよかった。
1-2 Hotel Gasthof Hainzinger ホテル・ガストホーフ・ハインツィンガー
●ミュンヘン郊外のエコノミーなホテル
写真1-2-1 写真1-2-2
2014年の旅行は、ほぼ同じ行程で、ミュンヘン市内に泊まって、翌朝車を借りて出発しました。2014ドイツ一人旅その1>1-2 ホテル・ブレヒャーシュピッツエ
ミュンヘンは観光地なので宿泊費が高く、車を借りるまで重い荷物を持って移動しなければならないし、ミュンヘン観光をしないのであれば、早めに車を借りてミュンヘンを離れたほうが、翌朝の行動も効率的なので、今回は空港で車を借り直ぐに郊外へ出ました。
宿はどうするか。ダッハウ強制収容所跡に近く、Wi-fiや駐車場が無料で使える安い宿をネットで探しました。
この宿は、ミュンヘン中央駅から北西へ約30km。一泊朝食付き58ユーロ(泊まり50ユーロ、朝食8ユーロ)。ドイツでは一般的な、庶民の宿です。
写真1-2-3 ホテルの前庭 写真1-2-4 ホテルの看板
左:ホテルの玄関先はテラスになっています。ここで飲み食いすれば気持ちよさそう。今思えば厨房は閉まっていても、ビールは飲めたかも。尋ねたらよかったかな。
右:ホテルの看板には「König Ludwig Weissbier ルートヴィッヒ王白ビール」という地ビールが書かれています。調べたところ、ここから南へ14km、フュルステンフェルトブルックFürstenfeldbruckにあり、バイエルン王家の末裔が経営する醸造所。醸造所はSchloss Kaltenbergカルテンベルク城の中にあり、レストランやビヤガーデンが併設され、7月には騎士ショーもあるようなのでいずれ訪れてみたい。
●客室
写真1-2-5 客室 写真1-2-6 客室
客室は大きなバルコニー窓が付いた、ミニマムなシングルルーム。布団が柔らかかった。朝夕には暖房が入り、室温は20度を維持していました。
写真1-2-7 サニタリー 写真1-2-8 サニタリー
日本のようなユニットではない、現場施工のサニタリー。こんな安い宿でも内装は新築みたいに綺麗だし、掃除が行き届いていて清潔感があります。
写真1-2-9 ビュッフェ式朝食 写真1-2-10 料金表
左:ビュッフェ式朝食。お昼の分までしっかり頂きました。半熟卵が美味しかった。
右:料金表を見ると、有名なオクトーバー・フェスト期間中、室料はほぼ2倍に跳ね上がります。それでも宿が確保できればマシかも。若かりし頃、宿が取れないので、学友らと往復とも夜行列車という「車中2泊3日の弾丸ツアー」を組んでオクトーバー・フェストへ行ったことを思い出します。
●早朝に散歩
写真1-2-11 カトリック教区教会 聖マルガレッタ 写真1-2-12 旧巡礼教会聖血
宿があるアインスバッハは、人口数百人の小さな集落。
気温3度、小雨の中、朝食前に少し散策しました。町並みは、比較的新しい戸建て住宅が建ち並んでいる印象。そしてこの二つのカトリック教会が集落の見どころ。
左:Katholische Pfarrkirche St. Margaretha カトリック教区教会 聖マルガレッタ
右:Ehemalige Wallfahrtskirche Heilig Blut 旧巡礼教会聖血
1-3 KZ-Gedenkstätte Dachau ダッハウ強制収容所跡
●五感で感じる強制収容所跡
写真1-3-1 市街地の道路 DR画像 写真1-3-2 駐車場入口 DR画像
旅行2日目はアインスバッハを出発し、ダッハウ強制収容所跡、ヴェルテンブルクを経由してイエナまで約450kmのロングドライブ。到着地イエナの天気予報は曇り、予想最高気温12度、最低気温0度で、長崎の冬の気候。小雨の中、アインスバッハを8時半頃出発。今日最初の訪問地、ダッハウ強制収容所跡まで一般道を約20km走ります。
左:ダッハウまでは高速道路がありますが、渋滞しているせいか、ナビは一般道を指示。駐車車両が多く、時には対向車と道を譲り合う市街地の見知らぬ道路、ナビのドイツ語音声案内を聞き取りながら、走り慣れた通勤車の流れに遅れないよう、「人馬一体のマイカー」ではなく、借りたばかりの車を走らせるのはかなり神経を使います。少々時間がかかっても広い道がいいな。
右:苦労したお陰で、予定よりも早くダッハウ強制収容所跡の駐車場入口に到着。係員に駐車場代を払うと「右側へ駐めろ。」との指示。こんなにスカスカならどこでもいいみたいだけど、指示に従って駐めました。見学を終えて駐車場へ戻って理由が分かりました。
写真1-3-3 ビジター・センター 写真1-3-4 近隣施設の案内板
左:駐車場から4分ほど歩くとビジター・センターに到着。開館時間の9時になったばかりなのに、館内は人で溢れています。
右:ビジター・センターの前に案内板がありました。今から見学する収容所跡は赤四角の範囲ですが、周辺には多くの関連施設があるようです。右下から反時計回りに、概ね次のように記載されています。原文は独語・英語二カ国語なので、日本語は私の拙訳です。以下同じ。
①Plantage大農園 最大で1,500人の収容者が毎日働き、100人が亡くなった。
②SS-Schießplatz 親衛隊(SS)射撃場 1941年から42年にかけて、ソビエトの戦争捕虜が4,000人以上射殺された。
③KZ-Friedhof 強制収容所墓地 終戦直前、石炭不足で火葬場が停止し、7,400人がここに葬られた。
④Waldfriedhof 森の墓地 収容所解放後も病気や衰弱で1,000人以上の収容者が亡くなり、1,268人がダッハウの森に埋葬された。
⑤Widerstand am Rathausplatz 市役所広場での抵抗 敗戦間近の1945年4月28日親衛隊(SS)部隊は、市役所を占拠した市民と脱走した収容者に発砲。収容者3名を含む6名が犠牲になった。
⑥Gleis 引き込み線
⑦Denkmal Todesmarsch 死の行進記念碑 1945年4月26日親衛隊(SS)は、約7,000人の収容者を徒歩で南へ向かわせ、うち数千人が亡くなった。
①収容所門付当直棟
写真1-3-5 収容所門付当直棟 写真1-3-6 説明板:収容所への到着
左:Jourhaus mit Lagertor, ehemaliges Dienstgebäude der SS(1936) 収容所門付当直棟、元親衛隊(SS)業務棟。1階中央が入場門。
右:説明板「Ankunft im Lager 収容所への到着」には、概ね次のように記載されています。
駅に到着した収容者は収容所まで行進、若しくはトラックで運ばれた。戦時中、輸送列車は収容所へ直接乗り入れた。
終戦1ヶ月前、他の収容所から数千人がここへ移送された。最後の移送は、1,000人以上にとって死を意味した。
注:地図で検索するとダッハウ駅から収容所まで約3km。
写真1-3-7 引き込み線跡 写真1-3-8 解放を記したプレート
左:収容所門付当直棟正面に引き込み線跡がありました(写真1-3-4案内板⑥)。
右:この棟にあったプレートに、1945年4月29日に米軍によって解放されたとあります。私が生まれる僅か14年前の誕生日までこのような蛮行があったとは信じられません。
写真1-3-9 案内板:Übersicht KZ-Gedenkstätte Dachau 収容所の概要
案内板の地図に赤丸の番号を振りました。門を通って②点呼広場、③主展示場、④復元収容棟、⑤収容所通り、⑥火葬場の順番で回ります。説明板左の写真は、
左上:収容者によって建設中の新収容所(1938)  右上:点呼広場での整列(1938)
左下:収容所通りを歩く収容者(1944)  右下:米軍を歓迎する収容者ら(1945)
写真1-3-10 スローガン「Arbeit macht frei 働けば自由になる」が書かれた入場門
説明板によれば、新たな収容者は全てここを通って入場したとのこと。
②点呼広場
写真1-3-11点呼広場 写真1-3-12 説明板:点呼広場
左:入場門を通って収容所敷地内に入って右へ進むと、Appellplatz 点呼広場。
右:訪問者が見ている説明板には、概ね次のように記載されています。
収容者は、天候にかかわらず点呼広場に朝晩1時間身じろぎせず立たされた。時には死者も引きずり出された。例えば脱走者がいて数が合わない場合、制裁として何時間も立たされた。病人や衰弱した者がたびたび倒れたが、誰も助けることを許されなかった。
③主展示場
写真1-3-13 旧管理棟、主展示場
Ehemaliges Wirtschaftsgebäude; Hauptausstellung 旧管理棟、主展示場
敷地内に残る最も大きい建物で、当時の管理棟。現在は主展示場として使われています。
写真1-3-14 案内板:管理棟 写真1-3-15 記念碑
左:説明板には概ね次のように記載されています。
1937~38年収容者によって建てられ、厨房、倉庫、浴室、洗濯室、作業場などがあり、西ウィングには新しい収容者の受付があった。そして屋根には大きな文字のスローガン。
「Es gibt einen Weg zur Freiheit. Seine Meilensteine heißen: Gehorsam, Ehrlichkeit, Sauberkeit, Nüchternheit, Fleiß, Ordnung, Opfersinn, Wahrhaftigkeit, Liebe zum Vaterland. 自由への道がある。その一里塚(マイルストーン)は、従順、誠実、清潔、冷静、勤勉、秩序、犠牲心、正直、祖国への愛だ。」
日本語に訳したものの、熟語の羅列は訳に自信が無いので、原語も掲載しました。青字のGehorsamには「刑務所、監獄」という意味もあってゾッとします。
右:主展示場の前に彫刻があります。ユーゴスラビア出身で、両親をアウシュヴィッツで亡くしたユダヤ人彫刻家ナンダー・グリッド(1924-1997)による、1967年国際コンペでの優勝作品で、有刺鉄線に絡まっている衰弱した収容者を表しているとのこと。
写真1-3-16 視聴覚室 写真1-3-17 説明板:収容棟での虐待
左:館内では社会見学の高校生と一緒にドキュメント・フィルムを見ました。内容は「水晶の夜」など当時の社会情勢を背景に、この収容所の歴史をたどる22分。残念ながら殆ど聞き取れない!ところで学校の指導なのか、生徒は前方に固まって座っています。
右:説明板(Schikanen in den Baracken)には概ね次のように記載されています。
収容者は労務や点呼で極限まで疲弊し、収容棟で回復できなかった。短い休息時間は「ベッドメイキング」と称して、食器洗いや棚の清掃、そして何にもまして床磨きに費やした。少しでも落ち度があると、悪意に満ちた虐待や厳格な罰則が課せられた。
写真1-3-18 収容所模型(1945)
上:1945年の収容所模型がありました。
赤枠は見学中の範囲。赤星が今いる場所。そして青枠がこれから見学する復元された収容棟。
建物や設備は赤枠を超えて、広範囲にあったことが分かります。
左:説明板「Gebäude und Einrichtungen des KZ Dachau,1945 収容所の建物と設備」によれば、親衛隊用の運動場や水泳プールもあって、収容する側とされる側の落差に改めて驚きます。
写真1-3-19 説明板:収容所の建物と設備
写真1-3-20 周壁 写真1-3-21 説明板:収容所周壁
左:主展示場から外へ出ました。収容所の回りには幾重にも脱走防止障壁があります。
右:説明板「Lagerumzäunung 収容所周壁」右側の白黒写真は、1942年5月6日、柵のそばで亡くなった女性。そして左の周壁の断面図には概ね次のように記載されています。
1937年~38年に改築された収容所は、逃亡の意志をくじく周壁で囲まれていた。7つの監視塔から親衛隊が見張っており、制限区域に入ると銃撃される。それを承知で自殺行為におよぶ収容者もいた。
(断面図 左から)1.外塀、2.巡回路、3.電気柵、4.有刺鉄線、5.堀、6.制限区域
④復元収容棟
写真1-3-22 復元収容棟
点呼広場の前にはBaracke(rekonstruiert 1965)復元された収容棟が2棟あります。
説明板によれば、右側の収容棟Aの内部は、1933年、1938年、1944年の収容棟の様子が復元されているとのこと。
写真1-3-23 収容棟跡地 写真1-3-24 説明板:復元収容棟
左:復元された収容棟の背後には、収容棟の基礎が16棟×2列=32棟分残っています。
右:説明板には概ね次のように記載されています。
収容所は、1933年から1937年の初期、1938年に改築され拡大された時期、そして収容者が最大に膨れた1944年から1945年がある。収容棟は、米軍によって1948年まで収容者の宿泊施設として、1962年まで難民や避難民のために使われた。1962年から1964年に歴史的な収容棟は解体。
現在の展示内容は、ナチの宣伝用に撮影された身ぎれいで整然としているかのような印象を与える写真であったり、実態とかけ離れているため、刷新が計画されている。
写真1-3-25 復元収容棟内部 写真1-3-26 説明板:収容者の宿舎
左:復元された収容棟の内部。説明板によれば34棟で6,000人の定員に対し、解放時には32,000人以上がいたらしく、一つのベッドに5~6人がひしめいていた計算。
右:説明板「Häftlingsunterkunft 1933-1937(Rekonstruktion) 収容者の宿舎」には当時の様子が克明に記載されています。特に印象に残ったのは、
・秋~冬の寒い夜はひどく凍え眠れない。誰もが咳き込んだり、胸の痛みに苦しんだ。
・洗濯設備は足りない。40人から50人に90cm幅の洗濯台と蛇口二つしかなく、起床から僅かの時間で済ませなければならない(次の写真1-3-27、28参照)。
・日々のベッドの点検で親衛隊が不十分とみなせば、詰所で平手打ち、むち打ちされた。
写真1-3-27 トイレ 写真1-3-28 洗面所
⑤収容所通り
写真1-3-29 収容所通り
収容棟を出ると、敷地の奥に向かってLagerstr.収容所通りがあり、正面はカトリック教会の礼拝堂(1960年)。ポプラ並木の両側は収容棟の基礎だけの跡地。並木の背後、左前方にはプロテスタントの教会(1967年)、右前方にはユダヤ教の祈りの場所があります。
実は大学生の娘がほぼ1年前にここを訪れています。長崎から1万キロ以上離れた場所でありながら、娘が歩いたであろう砂利道を私も歩けるなんて、娘の成長を実感し感無量。
写真1-3-30 説明板:収容所通り
説明板には概ね次のように記載されています。
この通りを点呼広場に向かって収容者が行進。労務の後と夕方の点呼の後、収容者はそれぞれの収容棟に閉じ込められた。
ポプラの並木道は、収容者らの中央集会所だった。僅かな自由時間、収容者はここに集まり情報交換を行った。「Der Geist der Lagerstraße収容通りの精神」は、抑圧に対する収容者の連帯の象徴であった。
敷地奥左手に進むと火葬場です。
⑥火葬場
写真1-3-31 新火葬場(1942/43) 写真1-3-32 説明板:火葬場
Krematoriumsbereich火葬場の説明板には概ね次のように記載されています。
1940年、死亡者が劇的に増加したため、収容所のそばに収容所からしかアクセスできない火葬場が造られた。1942~43年にはガス室が併設された新火葬場が建設。ガス室は大量殺戮には使われず、単身や小さなグループに使われた。
写真1-3-33 ガス室 写真1-3-34 焼却炉
左:「Brausebadシャワー室」と書かれたGaskammerガス室。霊感なんて普段感じませんが、さすがにガス室に入ったときは、地面から手が出て足を握られて引きずり込まれるような恐怖を覚えました。現場で五感で感じる事の大切さを改めて認識します。
説明板には、「15分から20分で、150人を同時にシアン化毒ガスで窒息死させる能力がある。」と記載されています。
写真1-3-35 衣類消毒室 写真1-3-36 旧火葬場(1940)
左:新火葬場の左端には、3帖くらいの広さで、両サイドにがっちりした鋼製扉が付いた不思議な部屋が並んでいます。説明板には「Desinfektionskammern消毒室」とあり、シアン化毒ガスで衣類を消毒するために使用したとのこと。
右:1940年に建てられた旧火葬場。1943年4月に役目を終えるまで約1万1千人が荼毘に付されたとのこと。
写真1-3-37 点呼広場 写真1-3-38 駐車場
左:最初に見学した②点呼広場へ戻ってきました。幸い朝一番の訪問だったので、上記のように屋外の案内板や説明板は、見て撮影できましたが、1時間もするとご覧のように案内板や説明板の前には黒山の人だかりで、近づく事すら無理。中高生くらいの社会見学の団体さんが多くて、イタリア語やフランス語も飛び交っていたので、周辺国からも来るもよう。ここダッハウ強制収容所跡は再現施設などもあって、学習施設としてよく整備されている印象です。
右:駐めるときガラ空きだった駐車場は、戻ってみたら大型バスが30台以上。これで右に駐めろと言われた理由が分かりました。11時前出発し、レーゲンスブルクの南西約35kmにあるヴェルテンブルク修道院まで104km、所要時間約1時間40分の予定。
1-4 Kloster Weltenburg ヴェルテンブルク修道院
●世界最古の修道院ビール醸造所
写真1-4-1 道の駅 写真1-4-2 昼食
左:雨が降り続くので慎重に運転し、1時間ほど走ったところで高速9号線を降りて「Holledau Autohof 道の駅」へ。着いてビックリ!反対車線のSAでした。私が向かっている北方向だと、一旦高速道路を降りて一般道からこのSA(道の駅)にアクセス。
右:ここで軽い昼食の後、来た道を戻り、再び高速道を北へ20分ほど走って一般道へ。
写真1-4-3 St2233 Eining 一般道 DR画像 写真1-4-4 Neustadt a. d. Donau DR画像
それから目的地まで40分ほどのドライブが楽しい。交通量は極小。なだらかな丘陵地のワインディングロードと、途中にある小さな集落が織りなす景色に心踊ります。
写真1-4-5 ドナウ川 写真1-4-6 修道院の看板
左:13時頃修道院駐車場に到着。ここから修道院までドナウ川沿いに徒歩7分(650m)
右:修道院の全貌が分かる写真が撮れなかったので、修道院の看板を掲載しました。
写真1-4-7 ドナウ川
シュヴァルツヴァルトを源流とし、2,850kmを旅して黒海に注ぐドナウ川。ここはまだ上流ですが、日本の一級河川のような流れ。絵画のような景色に溜息が出ます。
写真1-4-8 附属教会 写真1-4-9 中庭のビヤガーデン
左:修道院に到着。中庭に面して附属教会があります。堂内は、南ドイツに多くの教会を残したコスマス・ダミアン・アザムによるバロック様式の美しい装飾でした。あいにく堂内は撮影禁止。
右:中庭にはビヤガーデンがありましたが、開店休業。外気温4~5度、雨もぱらつき、長崎の冬の天候なので、さすがにドイツ人も屋内で飲食しています。
写真1-4-10 世界最古の修道院ビール 写真1-4-11 断崖絶壁の渓谷
左:お土産品店に「Seit 1050 Weltenburger Kloster Die älteste Klosterbrauerei der Welt 創業1050年 ヴェルテンブルク修道院 世界で最も歴史ある修道院醸造所」とあります。1050年は平安時代だから、1000年近く続く醸造所。
建物や景色を見に来たので、旅行ガイドには書いてあるのに、ビール醸造所は見過ごしていました。運転せず、天候がよければ飛びついたところでしょうが、絵はがきを買っただけ。今思えば、夜飲む分として買っとけばよかったかな。
右:修道院から下流に向かってドナウドゥルヒブルッフDonaudurchbruchという断崖絶壁の渓谷があり、遊覧船が運航しています。ドイツにしては珍しい地形。
ガイドブックによれば、レーゲンスブルクを拠点に鉄道・遊覧船で訪れることができ、これならビールを飲めるプランだ(笑い)。この付近にはギリシャ風のヴァルハラ神殿や、ドイツがナポレオンの支配からの解放された記念に建てられた解放記念堂もあり再訪したい。
1-5 Jena イエナ
●イエナまで
写真1-5-1 貨物列車 DR画像 写真1-5-2 シュロスベルクPA
1時間ほど観光して、14時過ぎ本日の最終目的地イエナへ向けて出発。ナビは、イエナまで313km、到着予定17時27分(所要時間約3時間半)と表示。
左:出発して暫くすると貨物列車とすれ違いました。日本ではコンテナ列車くらいしか見ないので、貨車の組み合わせは珍しい
右:レーゲンスブルクの市街地をかすめた後、高速93号線をひたすら北上。1時間ほど走ってトイレがあるだけのParkplatz SchlossbergシュロスベルクPAで休憩。
写真1-5-3 フランケンの森・ブリッジ・レストハウス DR画像
更に、バイロイトなどをかすめ1時間半ほど走って、高速9号線のBrückenrasthaus Frankenwald フランケンの森・ブリッジ・レストハウスという本線上のレストハウスで休憩。
Wiki.de(※、独語)によれば、本線上にレストハウスがあるのは、ここと高速1号線のRaststätte Dammer Berge ダマー山SAだけ。東西ドイツ国境の名残を留める特殊な施設。ポツダムの本線上の建物は、現在稼働していないのでカウント外かな。
写真1-5-4 レストハウス 写真1-5-5 GSと本線
左:レストハウスにはドイツではよく見かけるSerwaysやBurger KINGが入居。
右:その本線上のレストハウスからの眺め。GSと本線が見えます。
写真1-5-6 カップコーヒーの自動販売機 写真1-5-7 持込禁止
左:SAやGSでよく見かけるカップコーヒーの自動販売機。日本のコンビニにある機械とは様相がだいぶ異なります。
右:カフェテリアの窓にある持込禁止の掲示は、表現がいかにもドイツ。Der Verzehr von mitgebrachten Speisen und Getränke ist nicht erlaubt.(持ち込んだ食べ物と飲み物は飲食禁止)。裏返すと、「持ち込んでよいが、それを飲食してはダメ。」理にかなってます。
写真1-5-8 高速9号線 DR画像 写真1-5-9 一般道 DR画像
左:この後は、雨があがって時速130km前後で快調な走り
右:この後、ドライブレコーダーの記録画像を分析すると、本来なら高速9号線から高速4号線に乗り換えるところ、乗り換え地点のランプが工事中で、9号線をそのまま一つ先のインターへ。そこから一般道を24km走ってイエナへというコースをナビは案内しています。この一般道が素晴らしく景色がよい快適な田舎道
●Gasthof Zur Schweiz ガストホーフ・ツアー・シュヴァイツ
写真1-5-10 外観 翌朝撮影 写真1-5-11 2階平面図
イエナは人口約10万人。レンズ他光学機器で有名なカールツァイス発祥の地。今回生まれて初めて訪れます。
18時少し前、イエナの中心部にあるホテルに到着。駐車場はリクエストしておきました。市街地なので駐車には少々苦労することは覚悟していたものの、交通量の多い一方通行路にある駐車場の扉を手動で開けたり、狭い駐車場内で小刻みに何度も切り返しをしたりして、結局車を駐めるのに20分もかかってしまいました。市街地なのに無料の駐車場だから仕方ないか。
右:客室がある2階の平面図。左端の赤枠が泊まったシングルルーム。右側にはツイン(又はダブル)ルームが並んでいます。それと同等か広いことが分かります。
写真1-5-12 客室 写真1-5-13 客室
客室。シングルベッド二つ入る幅に、シングルベッドが一つだけだから(一人旅の証拠写真?)、余裕ある広さ。1泊朝食付き62ユーロ(泊まり56ユーロ、朝食6ユーロ)。昨日に続きエコノミーな宿で、市の中心部に立地するぶんだけ昨日よりも4ユーロ高め。
写真1-5-14 サニタリー 写真1-5-15 サニタリー
外観や客室からすると年季の入った建物だけど、サニタリーはリフォームされていて、しかも広い。ドイツではどんな安宿でも、メンテナンスのレベルが高い印象。
●夕食を求めて市街地を散策
写真1-5-16 フォルクス・ハウス 写真1-5-17 職業学校
ホテルのチェックインの後、夕食を求めて市街地へ。仕事柄、目についた建物を二つ紹介します。
左:まず、 カール・ツァイス財団が資金提供して、ライプチヒの建築家Arwed Roßbachアルヴェット・ロスバッハ(1844-1902)が古典主義建築様式で設計し、1902年に建てられた文化施設Volkshausで、コンサート・ホールや公立図書館Ernst-Abbe-Bücherei Jenaが入居しているとのこと。
右:エレガントなネオ・ルネッサンス様式の建物Karl-Volkmar-Stoy-Schule。イエナの建築家Ludwig Hirschルートヴィヒ・ヒルシュ(1856-1942)の設計で1892年に建てられた公立の高等小学校
赤レンガの東京駅丸の内駅舎を彷彿とさせ、日本にあれば重要文化財級でしょう。「観光施設」ではなく、現在も経済と経営の州立の職業学校として、立派に役目を果たしているらしく、こんな建物で学習若しくは働いてみたい。
写真1-5-18 マルクト広場にあるハンフリート記念碑
旧市街の中心マルクト広場Marktへ来ました。近代的な町並みの都市にあって、この付近はわりと歴史を感じる一角です。広場の中心にはHanfried Denkmalハンフリート記念碑という大きな銅像があります。イエナの大学を創設したJohann Friedrich I.(Sachsen)、ザクセンの選帝侯で公爵のヨハン・フリードリッヒ一世(1503-1554)とのこと。
写真1-5-19 夕食 写真1-5-20 辛口の白ワイン
「美味しそう」は最低条件として、一人でも構わなさそうなレストランがなかなかなく、これは思って入店したら満員だったりして夜8時前やっと、マルクト広場に面したイタリアンDue Angeliで夕食にありつけました。
左:Tagliatelle alla Mamma Hausgemachte Bandnudeln mit frischer Spargel und Vorderschinken in Sahnesauce(伊ママの麺)自家製帯状ヌードル、新鮮なアスパラガスと(豚の)もも肉のクリームソースあえ8.5ユーロ。大きな白アスパラガスは見慣れたつもりが、こんなに極太の巨大なのは初めて
König Ludwig Weißbier ルートヴィッヒ王白ビール0.5リットル3.9ユーロ。昨日の宿の看板に書かれていたブランドがここで飲めるなんて嬉しい。でもグラスはメジャーブランドの「Krombacher Weizen」。
右:Thurgau weiß 辛口の白ワイン0.2リットル5.5ユーロ。チップ込み20ユーロでした。
今日は木曜日。夕食後宿へ戻り、好きな刑事ドラマをリアルタイムで見て就寝。
写真1-5-21 朝食 写真1-5-22 客室からの眺め
左:翌朝、ドイツの典型的なビュッフェ形式の朝食。回りはスーツではなくて、作業服を着たビジネスマンばかり。商工業都市らしい雰囲気。
右:客室からの眺め。全般的に古くさい印象を受けます。外気温は実測で8度ほど。
●イエナ市内
写真1-5-23 イエンタワー 写真1-5-24 ミヒャエル教会
旅行三日目は、午前中宿に車を置かせてもらったまま、イエナ市内やカールツァイスの光学博物館を見学して、お昼頃イエナを出発。キフホイザー山を経由してクヴェトリンブルクまで約150kmほどのドライブ。到着地クヴェトリンブルクの天気予報は晴れ、予想最高気温12度、最低気温マイナス1度で、長崎の寒波到来の冬晴れ。
時刻はまだ午前9時。寒いものの快晴で気持ちがよく、博物館の開館10時までは少々時間があるので、少し市街地を散策します。
左:イエナのランドマーク、イエンタワーJen Tower。DDR(東ドイツ)時代は大学で使用され、現在はオフィスビルで128m、28階に展望台があるそうです。
右:マルチン・ルターが訪れて説教したこともあるプロテスタントのミヒャエル教会St.Michael zu Jena(1506)。戦災で大打撃を受け、2011年12月にバロック様式の尖塔が載った後期ゴシック様式の16世紀の姿に修復が完成したそうです。開館は10時からで堂内には入ることができませんでした。
写真1-5-25 写真1-5-26 火薬庫
左:教会の向かいに歴史を感じる建物がありました。ショーウインドウには「Spirituosen 酒類」と書かれているので歴史ある商家でしょうか。
右:Pulverturm(塔状の)火薬庫、奥には城壁の一部が残っています。「火薬庫」って、倉庫みたいなイメージだけど、そうか、塔の上で銃器を使うなら、そこに火薬もあると便利だから合理的。それとPulverは「粉、粉末」だと理解していましたが、「火薬」の意味もあるんだと知り、一枚の写真からいろいろと勉強になります。
写真1-5-27 ゲーテのイチョウ 写真1-5-28 ゲーテ記念館
時刻は9時半頃、ゲーテが働きかけて造られたという植物園Botanischer Gartenの門が開いていたためフラフラと入って見学していたら、「開園は10時からよ。」と言われ、慌てて退場するまでの僅かな時間に撮影した写真です。
左:Goethe-Ginkgoゲーテのイチョウ。案内板によれば、1790年から1794年頃に植えられ、ヨーロッパで最も古い現存するイチョウ。ゲーテはイチョウの葉と共に恋文と言うべき詩「銀杏の葉 Ginkgo biloba」を心を寄せる(人妻の)マリアンヌ・フォン・ヴィレマーに送ったそうです。調べたところ、イチョウは氷河期に東アジアだけで生き残り、ドイツ人医師で探検家のエンゲルベルト・ケンペルEngelbert Kaempferが、1692年に長崎・出島から持ち帰った種子からヨーロッパに広まった。絶滅したと考えられていたイチョウが日本に生えていることは「生きている化石」の発見と受け取られたそうで、思わぬところで故郷と接点があり、驚きました。
右:イチョウの右手にゲーテ記念館があります。晩年のゲーテは、当時植物園管理事務所として使われていたこの建物に、20kmほど西にあるヴァイマールから頻繁に訪れて植物学研究のため滞在もしたとのこと。
写真1-5-29 光学博物館 写真1-5-30 プラネタリウム投影機
左:10時になり本命の「光学博物館」へ入館。日本語のオーディオ・ガイドを聞きながら館内を回ります。恐らく全部聞いたら1日かかるのではと思える懇切丁寧な説明なので、興味が湧くところのみ聞きましたが、それでも2時間近くかかりました。
右:ホテルの駐車場へ帰る途中にショッピングモールのゲーテギャラリーに立ち寄ったら、博物館でたった今見てきたカールツァイス社製プラネタリウム投影機が展示してありました。
写真1-5-31 路面電車 DR画像 写真1-5-32 狩猟山トンネル DR画像
写真1-5-33 2012年撮影
12時15分イエナを出発。次の目的地キフホイザーまではおよそ80km、1時間半の予定。
左:イエナの市街地を抜けてすぐ、専用軌道を走る路面電車とすれ違い。調べたところ路線長23km、8路線あり、10万人の都市とは思えない立派なインフラ。写真はボンバルディアの低床2連接車GT6M-ZR。
右上:高速4号線に乗ると間もなく長さ3,072m、片側3車線の真新しいTunnel Jagdberg狩猟山トンネルがあります。この付近を2012年に通ったときは、日本ならよくある80km/h規制程度の片側2車線の高速道路でしたが、ドイツの高速道路としてはレベルが低いらしく、バイパスとなるトンネルを2014年半ばの完成を目指して建設中でした(右写真)。2012ドイツ家族旅行その5>5-1 強制収容所参照
完成したそのトンネルを通ります。トンネルの制限速度は80km/h。「Radarkontrolle レーダー取締り」の標識があって、皆さん大人しく走っています。日本はまだミッシングリンクの解消や暫定二車線の四車線化が大きな課題として残っているのに、高速道路のバイパスを建設するなんてレベルが違う。
1-6 Kyffhäuserdenkmal キフホイザー記念碑
写真1-6-1 案内板 写真1-6-2 看板より
途中休憩したり、道を間違えたりして2時間かかって14時15分頃山頂の駐車場に到着。
キフホイザーは、ゲッティンゲンとライプチッヒの中間に位置する、東西19km、南北7km、およそ70k㎡の独立した山地。最高峰はKulpenbergクルペンベルク(473.6m)、今回訪れたKyffhäuserburgbergキフホイザーブルク山(439.7m)が二番目で、山頂には高さ81mのキフホイザー記念碑があります。1888年に初代ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世が亡くなり、1890年~96年に建築家ブルーノ・シュミッツ(1858-1916)の設計により記念碑が造られたとのこと。
左:案内板左端にある駐車場から、中央やや上の茶色部分にある記念碑まで600m約6分ほど歩きます
右:全体像が分かる写真が撮れなかったので、案内板にあった空撮写真を掲載します。
写真1-6-3 休憩(昼食) 写真1-6-4
左:歩き出す前に駐車場横のカフェで休憩。これがお昼ご飯の代わりになりました。
右:山頂へ向かうと記念碑が見えてきました。案内板によればブロンズの騎馬像だけでビル3階に相当する高さ10.5mあるとのこと。7.5ユーロの入場料は高い!と思いましたが、老朽化した施設を維持管理するにはそれなりに費用がかかることでしょう。記念碑は地元の赤い砂岩で造られ、100年以上が経ち石の風化が目立ちます。
写真1-6-5
写真1-6-6 バルバロッサ伝説
右:写真1-6-5の右手に「バルバロッサ(赤髭王)伝説」の案内板がありました。小アジアで溺死した皇帝フリードリッヒ一世(1122-1190)の死を人々は受け入れることができず、言い伝えが広まった。王は死んでおらず、この地に眠っていて、国が危機に陥ると眠りから覚めて国を救う、というもの。
それでは記念碑に登ります。頂上の王冠のような所は、写真ではブロンズのように見えますが、基盤と同じ砂岩です。
写真1-6-7 雷雨危険! 写真1-6-8 記念碑内階段
右:途中に「雷注意」の看板。日本だと管理者責任を問われるので、雷雨が近づいたらさっさと閉鎖するところ、「auf eigene Gefahr(自己責任で)」と、あくまで本人の自覚に任されているところがドイツらしい。こちらではよくこの「auf eigene Gefahr」の掲示を見かけます。
左:平日ですが、狭い階段を少なからぬ観光客とすれ違います。ハリウッド映画「インディ・ジョーンズ・シリーズ」のような考古学冒険活劇の舞台みたい。鋼製の手摺りと支柱は、後付け若しくは老朽化で更新されたもののようですが、帯電しそうで確かに雷が来る前に逃げ出したいな。
写真1-6-9 記念碑の頂上より  写真1-6-10 バルバロッサ塔
左:記念碑の頂上、ちょうど王冠のような場所へ到着。360度視界が開け、素晴らしい景色。目の前の平原を見ると、ここが独立峰だとよく分かります。
右:振り返って反対側には、小ぶりな塔が見えます。案内板によればBarbarossaturmバルバロッサ塔。12世紀、皇帝フリードリッヒ一世(バルバロッサ[赤髭王])の時代に建てられた当時は高さ30m。15世に荒廃し、17mの残骸を20世紀に入ってから保存されるようになったらしい。
写真1-6-11 バルバロッサ塔から記念碑方向の眺め
バルバロッサ塔へ登り、記念碑方向を眺めます。このエリアは上の城といい、現在は資料館、売店、カフェテリアなどがあります。次に掲載する模型の左端から右側方向の眺めです。
写真1-6-12 キフハウゼン帝国城塞
資料館にあったここReichsburg Kyffhausenキフハウゼン帝国要塞の模型。
ネットで調べたところ栄枯盛衰長い歴史があるようで、紐解くと込み入ってしまうので、ざっくり書くと皇帝の命によって12世紀頃に建てられたので帝国要塞Reichsburgといい、左からOberburg上の城、Mittelburg中の城、Unterburg下の城の三つで構成され、幅60m、長さ600m、ドイツでもっとも大きい城の一つ。15世紀には廃城となり、19世紀に上の城の2/3を破壊して記念碑が建設され、20世紀になってから保存活動が始動し、記念碑を撤去しようという案もあったとか。今登ったバルバロッサ塔は左端、記念碑はほぼ中央です。
写真1-6-13 城の井戸 写真1-6-14 深さランキングの掲示板
左:中世のヨーロッパに限らず、戦略のひとつとして籠城作戦を支えた食料と水。ここには世界で最も深いBurgbrunnen城の井戸があります。深さは176m。一般的にはせいぜい10m程度なので、人力でこんなに深く掘ったなんて驚き。
案内板には、採掘中に上から石が落ちてくることがあり、待避用の横穴もあったとあります。当時安全が確保されていない中での決死の労働だったようで、心が痛みます。当時の技術力で40年かけて12世紀に造られた井戸は、長い間埋もれていて、1934~1936年に4,500m3立米の土砂を取り除いて復活したとのこと。
右:この案内板は、ドイツの城の井戸ランキング。ハルツ地方にあるレーゲンシュタイン城の深さ197mの井戸は埋没したままなので、現時点でもっとも深い城の井戸(左端)。その右隣2位はケーニッヒスシュタイン要塞(ザクセン)152.5m(16世紀)。記念碑を訪れたものの、人力で掘った深い井戸があることにとても興味が湧きました。
●クヴェトリンブルクへ
キフホイザーを16時頃出発し、今日の最終目的地クヴェトリンブルクへ向かいます。北へ約70km、山道を1時間20分程度の予定ですが、ナビの指示によって実際に走ったルートをDR記録画像で検証すると、東へ大回りして走りやすいB86号線経由で約100km走ったようです。
写真1-6-15 登山道 DR画像 写真1-6-16 アッシャースレーベン DR画像
左:山頂の駐車場を出発すると、雲仙登山道のようなワインディングロードが約4kmほど続きます。ところどころ50km/hの制限速度標識が出ていますが、基本的に100km/h制限。ライダー天国らしく、こちらが恐る恐る下っていると、ブラインドカーブから日本だと考えられないスピードの二輪車が現れドキッとします。
右:途中、Ascherslebenアッシャースレーベンという人口28,000人の都市の中心部を通ります。私の前を行く大型トレーラー。対向車線も大型車がかなりの頻度で来るので幹線道路のようですが、ドイツにしては貧弱な道路。すすけた家並み、維持管理不十分で壊れかけた建物などからしても、旧東ドイツ地域の疲弊ぶりが如実に現れています。ナビはなぜかしらクヴェトリンブルクの北7kmにあるDitfurtディットフルトへ誘導。右往左往しながらなんとか18時過ぎ宿に到着。
1-7 Nachwort あとがき
●ドイツ語の表現が分からない
写真1-7-1 ナビの画面
ミュンヘン空港でレンタカーを借ります。最初に貸してくれた車は、ビルトインのナビが使えず、もう一度レンタカー会社のカウンターに戻って説明したら、「外付けを貸します。」との返事で、ごそごそとシガーライターから電源を取るナビを用意しだしました。
私は、「シガーライターをDRの電源として使うので、車を変えて欲しい。」と伝えたいものの、青字の部分のドイツ語が分からない。何とか苦労して車を変えてもらいましたが、こうやって書き出すと、下手でもまだ英語で伝えた方がよかったかな。日 英/独で書き出してみます。
シガーライター Cigar Lighter/Zigarettenanzünder
DR(ドライブレコーダー) Drive Recorder/Autokamera oder Autounfallkamera
●キフホイザー、何気なく訪れたところが穴場だった
写真1-7-2 到着直前 DR画像
日本の旅行ガイドブックには、イエナからクヴェトリンブルク間に取り立てて見どころは書いてなかったので、イエナからクヴェトリンブルクへ直行しようかとも思いましたが、いろいろ調べていたらキフホイザー記念碑が面白そうだったので、「ついでに」の軽い気分で、旅行プランに加えていました。
そして旅行に出発。普段なかなか時間が無くて読んでいなかった「日本人が知りたいドイツ人の当たり前」をドイツへ向かう飛行機で読んだら、「ドイツ人なら知っているけど、日本人はめったに行かないようなところを教えて。」に「キフホイザー記念碑」が出てきたので驚き。
確かに、記念碑だけでなく、周囲の景色、キフホイザーに至るドライブなど、観光客が溢れるメジャーな観光地を見飽きた目には新鮮。そういえば、ここまで日本人はおろか、東洋系とも殆ど遭遇していません。
ただし公共交通機関が無いので、例えばノルトハウゼンを拠点に、タクシーで27km走るか、ノルトハウゼンから1時間に1本ほどあるローカル鉄道でBerga-Kelbraベルガ=ケルブラ駅まで行き(所要時間15分)、そこから記念碑まで片道10kmをハイキング(2時間半~3時間)するか、タクシーを手配しておくかになりそう。あくまでネット検索した机上のコースなので、実際に行く場合は、自己責任で調べてください。
画像は到着直前のDR記録画像をトリミング。道路のコーナーを回ると山頂にいきなり巨大な構造物が見えたので、思わず声を上げてしまいました。
ご覧になっているページ 2ページ目へ移動 3ページ目へ移動 4ページ目へ移動 2ページ目へ進む
1.Bayern-
Thüringen
2.Herz 3.Eifel 4.Ruhr-
gebiet
2.Herz
 


Copyright(C)2017 Hiro Kofuku All rights reserved