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Eine Deutschlandreise 2012 ドイツ旅行 (4/5)
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Inhalt 目次
1 Bis Rostock ロストックまで
2 Um Rostock ロストック周辺
3 Potsdam ポツダム
4 Berlin ベルリン 前編 後編
5 Buchenwald ブーヘンヴァルト
4 Berlin Teil 2 ベルリン 後編
4-6 Mitte ミッテ地区
4-7 Weitere Sehenswürdigkeiten その他の見所
4-8 Nachwort あとがき
4-6 Mitte ミッテ地区
ベルリン市は2012年現在で12の行政区に別れており、ミッテ(Mitte)はいわゆる中央区にあたり厳密にはTV塔や博物館島も含みますが、ここではブランデンブルク門付近のミッテ地区西側を紹介します。
●連邦首相府
連邦首相府 連邦首相府
写真4-6-1 写真4-6-2
写真4-5-19で船からの写真を紹介した連邦首相府に沿って、炎天下とまではいかないものの日本の夏のように暑くなった快晴のもと、少々疲れ気味で歩きます。敷地内には多くの警察車両が止まっています。
右は娘が撮影した写真。完全に夏モードです。写真中央には連邦首相府を見学待ちの長い行列ができています。イベントか何かだったのか覚えていません。
連邦首相府の側を歩く家族
写真4-6-3
●ドイツ連邦議会議事堂
ドイツ連邦議会議事堂
写真4-6-4
ドイツ連邦議会(Deutscher Bundestag)の議場(Reichstagsgebäude)。つまり国会議事堂(2.議事堂、以下オレンジ色の文字は、写真4-7-8 ティーアガルテンの地図に位置を表示)。
1871年に統一ドイツ(ドイツ帝国)が誕生し、国会の開催場所として1894年に落成。1933年に放火により全焼し、更に1943年のベルリン大空襲で徹底的に破壊。
1990年の東西統一後、連邦議会議事堂として使うため1999年に修復が完成。ドイツのTVニュースで流れる内部の様子は、外観に反して現代的な使いやすそうなオフィスです。屋上のガラスドームは見学可能で、この日も長い行列ができていました。
議事堂の前にあるナチスの犠牲になった議員96人を追悼する記念碑
下の2枚の写真は拡大写真。ロッテ・ツィンケ(Lotte Zinke 1891-1944)はドイツ共産党(KPD Kommunistische Partei Deutschlands)に所属し、ラーフェンスブリュック強制収容所(注、Konzentrationslager Ravensbrück)で亡くなった事を現してます。
注:ベルリンの北80kmのところにあり、主に女性囚人を収容した強制収容所。
ナチスの犠牲になった議員96人を追悼する記念碑
写真4-6-5
ロッテ・ツィンケ ロッテ・ツィンケ
写真4-6-6 写真4-6-7
○ブランデンブルク門付近
ブランデンブルク門付近
写真4-6-8
議事堂を過ぎると3.ブランデンブルク門が見えてきました。右側に白いものが見えます。
ベルリンの壁を乗り越えようとして命を落とした市民を追悼するメモリアル ベルリンの壁を乗り越えようとして命を落とした市民を追悼するメモリアル
写真4-6-9 写真4-6-10
白いものは、ベルリンの壁を乗り越えようとして命を落とした市民を追悼するメモリアルでした。最後の犠牲者は、壁が落ちるわずか9ヵ月前の1989年2月6日、クリス・グェフロイ(Chris Gueffroy)という20歳の青年。何とも忌まわしい時代だったと改めて感じます。
●ブランデンブルク門
ブランデンブルク門
写真4-6-11 ブランデンブルク門 Brandenburger Tor 2012年
Wiki(※、日本語)によれば、ベルリンは星形要塞に囲まれた城郭都市で、ブランデンブルク門は18箇所あった門のひとつ。古代ギリシャ風の古典主義様式で砂岩を使い1791年に竣工。1868年に他の門が城壁と共に取り壊されるも、この門だけは唯一残されたらしい。
門の上にある彫刻「四頭馬車と勝利の女神ヴィクトリア」は、ベルリンを占領したナポレオンから戦利品として一時パリへ持ち去れ、その後ナポレオン戦争によりプロイセン軍がパリを占領すると、再び門に戻されたとのこと。
ブランデンブルク門 1981年写真4-6-12 1981年 ブランデンブルク門 1939年
写真4-6-13 1939年(絵はがき)
左:冷戦時代、西側から東側を臨む。門の先には東ベルリンの目抜き通りウンター・デン・リンデンが見えます。門の前にはベルリンの壁があり門には近づけませんでした。
右:約30年前に買い求めた絵はがき。第二次世界大戦の前、ベルリンが繁栄した時代。Copyright:Herst. u. Verlag Schöning & Co + Gebrüder Schmidt
ブランデンブルク門 冷戦時代 ブランデンブルク門 模型
写真4-6-14 写真4-6-15
この2枚は今回の旅行で撮影。これほど激動の時代を生き抜いてきた建造物は多くないでしょう。
左:門の近くにあった案内板の写真。冷戦時代。左側は東ベルリン、右側は西ベルリン。写真4-6-11(2012年撮影)、写真4-6-12(1981年撮影)とも西ベルリン側から撮影しました。
門は東ベルリン側にあり、しかも壁に沿って無人地帯があるため、東ベルリン側からも近づけませんでした。
右:この後に紹介する戦勝記念塔内にあった模型。模型の上には古い時代の写真が。左からベルリンが繁栄した時代、第二次世界大戦終結時、壁崩壊時のようです。
ベロタクシー 6月17日通り
写真4-6-16 写真4-6-17
左:門の前にはベルリン発祥のベロタクシーが。
右:門から西側の6月17日通(Straße des 17. Juni、注)を臨む。右側の黄色いバスが停車している付近にある施設を次に紹介します。
注:スターリンの死後の1953年6月16日に起こり翌17日に収束した東ベルリン暴動にちなむ。
○ソ連戦勝記念碑
ソ連戦勝記念碑1981写真4-6-18 30年前 ソ連戦勝記念碑
写真4-6-19
4.ソ連戦勝記念碑 Sowjetisches Ehrenmal im Tiergarten
日本のガイドブックには、ほとんど触れられていませんし、見所は他にも沢山あるので、限られた時間で敢えて訪れる場所ではありませんが、約30年前に訪れた場所を訪ねてみたいと思いました。
左:旧西ベルリンの英国占領地域の中の飛び地として記念碑がありました。第二次世界大戦末期ベルリン攻撃1番乗りの本物の戦車が両脇に鎮座し、中央には赤軍(ソ連軍)兵士の像があります。1945年築。
ソ連戦勝記念碑
写真4-6-20
右:約30年前とほぼ同じ構図で撮影してみました。2枚の写真を見比べても、木々が大きく育ったくらいで、明確な差違は感じられません。でも実感は全く違います。
左の写真に再び戻って、冷戦時代ですから赤軍兵士が四六時中駐留しているので、当時はカメラを向ける事すら緊張しました。
右:Wiki.de(※、独語)によれば、東西統一後の1994年ドイツ・ロシア間の協定により、施設はベルリン市に譲渡され衛兵もいなくなったらしい。この日も観光客が自由に出入りしていました(右写真)。拍子抜けするくらいのどかな雰囲気に、平和の有り難さを感じます。
カレー・ソーセージのフライドポテト添え
写真4-6-21 カレーソーセージ
次に紹介するホロコースト記念碑の近くでお昼にしました。ベルリン名物のカレー・ソーセージのフライドポテト添え(Currywurst mit Pommes)です。
帰国後娘に、何が一番美味しかった?と尋ねたら、これが一番だったと。え~、あれだけいろいろ食べさせたのに、庶民の味が一番だったとは。とは言え、私もこれとビールがあれば大満足なので、やっぱり血は争えないようで(笑い)。
●ホロコースト記念碑
ホロコースト記念碑 ホロコースト記念碑
写真4-6-22 写真4-6-23
左:ブランデンブルク門を南へ100mほど行くと、約1.9haの敷地にコンクリート製の石碑2,711基がグリッド状に並ぶ記念碑が現れます。正式名称はDenkmal für die ermordeten Juden Europas(虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑、通称5.ホロコースト記念碑)。2005年5月開設。ここは東西ベルリンを隔てる無人地帯だったところ。その一等地にこれだけの記念碑を造るとは、ドイツ人の英断に感服します。
右:石碑は大きさがバラバラで、しかも通路はアップダウンもあり、さながら迷路です。
ホロコースト記念碑 次元の部屋 ホロコースト記念碑 名前の部屋
写真4-6-24 写真4-6-25
地下は情報センターになっています。
左:次元の部屋(Raum der Dimensionen)。迫害を受けて書かれた日記、手紙、メモ類が床や周囲の壁に展示してあります。
右:名前の部屋(Raum der Namen)。スクリーンに殺害若しくは行方不明となったユダヤ人の名前と略歴が次々と流れています。全犠牲者の読み上げには6年8ヵ月かかるそうです。
ホロコースト記念碑 パンフレットホロコースト記念碑日本語のオーディオガイドはありませんが、情報センターに日本語のパンフレット(左画像)が置いてありました。この日本語パンフレットは、公式サイト(※、独語。トップページ画面下の日本国旗をクリック)でもPDFで提供されています。
右は娘が撮影した写真。情報センターの入り口は地下ですが、入場待ちの行列整理のため、職員が地上に出てきて強い夏の日差しにもろともせず、精力的に職務に当たっていました。場所が場所なせいか、ドイツ人にしては貢献的で愛想がよかったです。この後ベルリンの壁記録センターへ行きます。
4-7 Weitere Sehenswürdigkeiten その他の見所
●ベルリンの壁記録センター
ベルリンの壁記録センター ベルリンの壁記録センター
写真4-7-1 写真4-7-2
ベルリンの壁記録センター Dokumentationszentrum Berliner Mauerは、中心部から北寄りベルナウアー通(Bernauer Str.)に残されている壁に面してあります。
左:センターの外壁には、銃を構えた兵士が見守る中、職人が壁を積み上げている写真が掲げられています。
右:残されてる壁。ただし、鉄筋が露出するほど削り取られています。観光客が記念に削って持ち帰るのでしょうか。
ベルリンの壁記録センター ベルリンの壁記録センター
写真4-7-3 写真4-7-4
センターの屋上から壁を見た様子。手前から旧西ベルリン、壁、無人地帯、壁、旧東ベルリン。無人地帯には監視塔が建っています。
ここに立っても当時の「冷戦最前線の緊張感」は全くありません。当時が異常なのであって、今の平和をかみしめた一瞬でした。では中心部へ戻ります。地下鉄でウンター・デン・リンデンまで戻り、2階建て路線バスで戦勝記念塔へ。
●戦勝記念塔
戦勝記念塔
写真4-7-5
6.戦勝記念塔 Siegessäuleは、ティーアガルテンの中央にそびえ立つ高さ67mの石塔。頂上は勝利の女神ビクトリアの金色の像。デンマーク戦争勝利を記念して、1872年に完成。当初議事堂(写真4-6-4)前広場に建てられ、1939年に現在地に移設されたとのこと。
実は、どこか高いところからベルリン市内を眺めてみたいと思いましたが、テレビ塔(写真4-5-5他)は長蛇の列。下で紹介する放送塔(写真4-7-23他)も工事中で上れないので、まだ行ったことがないこともあってこの塔にしました。
この塔は大きなロータリー・グローサーシュテルン(Großer Stern[大きな星])の中央に建っており、横断歩道は無いので地下通路でロータリーを横断します。上の写真4-7-5は地下通路から眺めた塔。
塔にはエレベーターがありません。入場料を払って女神像の直下の展望台まで285段の階段を上ります。それでは展望台からの眺めをご覧下さい。
戦勝記念塔からの眺め
写真4-7-6
6月17日通を東方向(旧東ベルリン)に眺めます。通りの先には3.ブランデンブルク門が見えます。写真4-6-17の反対側から撮影した構図です。
その先にはテレビ塔2.議事堂連邦首相府1.世界文化館シュプレー川など、上で紹介した建物群が見えます。写真の右上側は今回行けなかった7.ポツダム広場の建物群が見えます。
ティーアガルテンの地図を示した看板
写真4-7-8 ティーアガルテンの地図を示した看板。地図の上が北。
1.世界文化館
2.議事堂
3.ブランデンブルク門
4.ソ連戦勝記念碑
5.ホロコースト記念碑(ティーアガルテンの外)
6.戦勝記念塔
7.ポツダム広場(ティーアガルテンの外)
8.日本大使館(〃)
9.カイザー・ヴィルヘルム記念教会、動物園(〃)
10.ハンザ地区
塔の上から眺めると、うっそうとした森が広がっているように見えますが、地図を見ると水辺や広場も多いみたい。
この看板には「Großer Tiergarten(直訳すると大きな動物園)」と書いてあるため、何故だろうと調べてみました。日本のガイドブックには「ティーアガルテン公園」などと書いてありますが、本来ティーアガルテンTiergartenとはZooよりも小型の(小)動物園を言うらしい。そしてベルリン市内にはもう一つティーアガルテンという名の小さな公園があるため、小さい方を小ティーアガルテン。こちらを大ティーアガルテンと呼んでいるとのこと。つまり動物園という名の大きな公園というわけ。
かつては王家の狩猟場で、210ヘクタールの広さ。ここも第二次世界大戦で焼け野原となり、残った木も戦後の石炭不足のため燃料として使われたり、焼け野原では食糧不足のためジャガイモなどが作られたとありました。しかし現在の豊かな緑からはとても想像できないですね。
戦勝記念塔からの眺め ホーフイェーガーアレー
写真4-7-9
南方向は、ホーフイェーガーアレー(Hofjägeralle)です。右上の斑に見えるビルは「インター・コンチネンタルホテル」。通りの左側には8.日本大使館があります。
戦勝記念塔からの眺め
写真4-7-10
6月17日通を西方向(旧西ベルリン)に眺めます。通りの先の左側に9.カイザー・ヴィルヘルム記念教会、動物園などがあります。
通りの右側には10.ハンザ地区(Hansaviertel)の住宅群が建ち並んでいます。
戦勝記念塔からの眺め ベルビュー宮殿
写真4-7-11
北方向。中央のコの字形の建物は11.ベルビュー宮殿(Schloss Bellevue)。1786年、プロイセンのフェルディナント皇太子のために建てられ、現在は連邦大統領官邸として利用されているとのこと。その手前の楕円形の建物は連邦大統領府(Bundespräsidialamt)。
右上にはベルリン中央駅が見えます。
戦勝記念塔にて 上の写真は訳も分からず取りあえず撮影し、こうやって写っているものを調べた結果を書き出してみました。今になってぼんやりながらもベルリンの全体像が頭に入りました(笑い)
これで駆け足のベルリン観光は終わり。戦勝記念塔の足元にしゃがみ込む私と娘。一日歩き回ってお疲れモードです。
この後、2階建て路線バスに乗って、クーダムへ戻ります。
写真4-7-12
移動遊園地 ストリート・パフォマー
写真4-7-13 写真4-7-14
クーダムへ戻ってきました。
左:カイザー・ヴィルヘルム記念教会のそばには移動遊園地が。
右:彫刻ではありません。ストリート・パフォマーです。体全体をペインティングして石像のように動きません。こんな人があちらこちらにいました。
7日目の夕食は百貨店のセルフ式レストラン
私の夕食。グーラッシュ、パン、デザート、ヴァイツェン・ビール 娘の夕食。食い道楽ブュッフェ、ジュース、デザート
写真4-7-15 写真4-7-16
ドイツ最後の夜は百貨店カー・デー・ヴェーの最上階のセルフ式レストラン「ヴィンター・ガルテン」で。
左:私の夕食。グーラッシュ(4.95ユーロ)、パン(1.1ユーロ)、デザート(2.75ユーロ)、ヴァイツェン・ビール4.25ユーロ、計13.05ユーロ。
右:娘の夕食。食い道楽ブュッフェ(Schlemmerbuffet)0.33kg×28.90ユーロ/kg=9.54ユーロ、ジュース4.30ユーロ、デザート2.75ユーロ、計16.59ユーロ。
妻の料理は写っていませんが、3人で42.23ユーロでした。
少々お高い感じがしなくもありませんが、セルフサービスなのでチップは要らないし、実際に目で見て好きなものを好きなだけ選べるので、観光客にも無難かなと思います。私のビールと娘のジュースの値段がほぼ同じなのは、いかにもドイツらしい。
以上でドイツ7日目は終わりますが、ここで7日目のコースから外れ6日目に一人で回ったところを整理しておきます。
○チェックポイント・チャーリー博物館(壁博物館)
チェックポイント・チャーリー博物館(壁博物館)
写真4-7-17
ウンター・デン・リンデンから南へ、ベルリンの壁にあった検問所チェックポイント・チャーリーのそばに、壁博物館(Museum Haus am Checkpoint Charlie)があります。
Wide.de(※、独語)よれば、検問所の建物は最初木造小屋が造られ、1980年代に金属製プレハブに変わり、1990年6月に撤去。そして2000年8月に観光施設として最初の木造小屋が復元されたとのこと。
アメリカ国旗を持った兵士風の青年らはチップを払うと気軽に写真撮影に応じていました。ドイツ人というより米国人ぽくて、アルバイトでしょうか。ネット検索しても情報にたどり着きませんでした。
○国際会議場と放送塔
国際会議場ICC 1981年写真4-7-18 30年前 国際会議場ICC
写真4-7-19
中心部から西へ少し離れたところに国際会議場ICC Berlin(Internationales Congress Centrum Berlin)があります。1979年4月にオープンしているので、約30年前はオープンして2~3年の時期だったことになります。
約30年前は12月5日、今回は8月に訪問したので真冬か真夏かの違いがあり樹木の葉の付き具合に差がありますが、他は目立った違いは見当たりません。右のビルにある中華料理店も健在のようです。
国際会議場ICC 1981年写真4-7-20 30年前
写真4-7-21
国際会議場ICC 駐車場
写真4-7-22
宇宙船みたいな前衛的なデザインは、今見てもインパクトがあります。右は立体駐車場。会議場と一体でデザインされています。
約30年間の違いと言えば案内板の表示が約30年前「Congress Centrum」、今回「ICC」と略称になっているくらいでしょうか。外観からは老朽化を感じません。きちんと維持管理されているのでしょう。
放送塔 1981年写真4-7-23 30年前 放送塔
写真4-7-24
こちらは、国際見本市の会場に建つ放送塔(Berliner Funkturm)。パリのエッフェル塔(高さ324m)を参考に1926年築、高さ146.78m。展望台が地上125m、レストランが地上55m。
放送塔 上で紹介したテレビ塔(写真4-5-5及び4-5-6)は入場待ちの長蛇の列にウンザリしたので、ここなら大丈夫だろうと下見に来たら、なんと工事のため閉鎖中。
玄関口にいた係員に、約30年ぶりに日本から来たと言ったら、驚くでもなく残念がるでもなく、「またいらっしゃい」とあっさり言われちゃいました。
約30年前にこの塔の展望台から撮影した写真がありますが、ビフォー・アフターは次回の楽しみに取っておきます。
それで戦勝記念塔に登ることにしたというわけです。
写真4-7-25
6日目の夕食は中華
6日目は一人で回ったと書きましたが、夕食は家族で出かけました。連日のドイツ食も飽きただろうから中華にすることに。5日目のイタリアンは、ガイドブックを鵜呑みにして失敗したので、自分の足で稼いで数店の店頭メニューを見比べたところ、宿に一番近い店が観光客があまり行きそうにない地元民主体の店で無難そうだったので、ここにしました。
中華料理店 HO LIN WAHの玄関 布袋様と貔貅
写真4-7-26 中華料理店HO LIN WAH 写真4-7-27 布袋様と貔貅
クーダムのメインストリートから一歩中に入ったHO LIN WAH(好年華酒楼)という中華料理店。
台湾出身者がやっているお店のようでした。店名とか店頭にあった置物とか気になったので、中国籍の知人に解説をお願いしました。以下解説文を一部編集して掲載します。
左:年華は、青春というか華があった年月みたいな意味だと思います。ローマ字の「HO LIN WAH」は、たぶん好年華の中国語の発音を当てたものだと思います。「好年華(ハオニェンフゥア)」みたいな発音です。酒楼は、そのままのイメージで飯店よりも規模が少しだけ大きなレストランという意味です。
右:人物像は、日本では布袋といって七福神の一柱になっていますが、中華圏では弥勒(みろく)菩薩の化身と思われていて、この像は、弥勒菩薩の事だと思います。福をよぶ縁起物として、置いてあると思います。
銅像は、貔貅(ひきゅう)だと思います。龍の子供だとか、いろんな言い伝えがあるようです。厄除けというよりは、財をまねくための縁起物だと思います。日本で言う、招き猫ですね。
たぶん風水が好きな方なので、こうした像がおかれているのだと思います。
以上とてもわかりやすい解説をしていただきました。ここに改めてお礼申し上げます。
七福神といえば、恵比寿様や大黒様がすぐに思い浮かびますが、恥ずかしながらそれ以上深く考えた事はなかったので、目から鱗でした。Wiki(※、日本語)によれば、「布袋(ほてい)様は唐末の明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したとされる伝説的な仏僧。」とあります。小柄で太鼓腹が特徴らしい。
貔貅(ひきゅう)は、Wiki(※、日本語)によれば、「風水では四霊とされる竜、鳳凰、亀、麒麟にならぶ瑞獣として扱われている。」とあるので、中華圏では重要な縁起物なのでしょう。
約30年前初めてドイツへ行ったとき、学友から「なぜ日本には徴兵制がないのか。」とか「天皇の役割は」といった質問を受けました。私はドイツに関心を持っ出掛けているので、改めて自国の事について問われると頭を抱えた事を思い出します。帰国後「ドイツ人が日本人によく聞く100の質問」という書籍を買って勉強しました。今ならネットがあるので、割と楽ですが。
上の解説を読んで、改めて自国の文化に対する自分の知識の浅ささを思い知りました。でも今は開き直っています(笑い)。興味があることに邁進して、分からないとはネットで調べたり、人的ネッワークでアドバイスをもらえばいいや、と。
中華料理店 HO LIN WAH 炒飯 中華料理店 HO LIN WAH ワンタン
写真4-7-28 写真4-7-29
左:炒飯。これでレギュラーサイズ。決して「大盛り」を注文したわけではありません。味は日本の中華料理店で食べるのと変わらず、粒はべとつかずぱらぱらでした。
右:ワンタン。こちらもスープが溢れんばかり。スープはあっさり。
妻も娘も喜んでくれてホットしました。ビール2杯とジュース、チップ込みで30ユーロ。
約30年前もそうでしたが、困ったときの中華頼み。日本料理店は高いし、中華なら地方都市にもあって日本人の口にも合うし値段もそこそこ。唯一欠点は「ラーメンが無いこと」と、ここまで書いてネット検索していたら、この店を訪れた日本人のブログ(※)がありました。タイトルは「Berlin Zoo駅すぐ!絶品チャーシュー麺を発見!」 このブログによれば、この店には日本語のメニューがあり、ラーメンもあるとのこと。しかも美食家らしい分析に舌を巻きます。グルメじゃない私にはここまで書けないな~。ちなみに私はドイツ語のメニューで選択。日本語のメニューがあるとは知らなかったし、店員も日本人だと気づかなかったか、私が流暢な(?)ドイツ語を話したので、敢えてその以上の事はしなかったかのか。
仮に「湯麺」の文字を見つけても、私にはこれがラーメンだと気づかないでしょうね。チャーシュー麺食べてみたいですね。また行かなくちゃ(笑い)。
ベルリンの夕日
写真4-7-30 アパートから見る20時半頃の夕日
これでドイツも最後の夜になりました。明日はブーヘンヴァルト強制収容所跡を経由してフランクフルト国際空港へ戻ります。
4-8 Nachwort あとがき
欧州で一番ホットな都市「ベルリン」
約30年ぶりのベルリンは、躍動感にあふれていました。
●第二次世界大戦前、ドイツ帝国、ヴァイマール共和国の首都として繁栄した時代
●第二次世界大戦後の冷戦を背景に、東西ベルリンに分裂していた時代
●そして1990年のベルリンの壁崩壊後、東西ドイツが統一され再び首都としてダイナミックに変貌を遂げる現代
それぞれの時代の遺産、また現在進行中のプロジェクトなどが広大な市街地に多数林立しています。今回の旅行は、その表面をなぞっただけ。次回は自分の興味がある分野に絞り込んで見て回りたいと思いました。
観光シーズン真っ盛り
ペルガモン博物館の入場待ち行列 連邦議会議事堂の入場待ちの行列
写真4-8-1 写真4-8-2
この2枚は2008年8月、つまり4年前の夏に長女が撮影した写真。
左:ペルガモン博物館の入場待ち行列。長女は入場を諦めたと言っていました。ちなみに写真4-4-14と同じ構図。4年前には円筒形の建物が無いことが分かります。
右:連邦議会議事堂。ここも入場待ちの行列。
話には聞いていましたが、実際行ってみて確かにそうでした。人気のある観光施設は、朝一番に行くべきでしょう。
ショッピングには時間がいくらあっても足りない
クーダムのH&M
写真4-8-3 クーダムにあったH&M
H&Mはクーダムにも数店ありました。左端に私の後ろ姿が写っています。実はこの夏ポロシャツを買うつもりでいて、せっかくドイツへ行くからベルリンで買おうと思っていました。H&Mを覗いたら、Sサイズ(日本のMサイズ)の気に入ったポロシャツが半額の7ユーロで売れ残っていたので、即買い。つまりドイツ人にとっては小さすぎるので売れ残っていても、私にはちょうどいいわけです。ベルリンは事前の天気予報に反して予想外に暑かったので、買って直ぐ大活躍。着ている白・グレーのシマシマポロシャツがそれ。
最後は洗濯も面倒になって、どうせ消耗品で何枚あっても邪魔じゃないからと靴下や下着のパンツまで買っちゃいました。
もともとショッピングの時間は丸一日予定してましたが、雨のため観光を半日減らしてショッピングに回しましたが、妻はもっとショッピングしたかったとのこと。限られた旅程では仕方ありませんが、ベルリンでのショッピングは、女性陣には魅力的なんでしょうね。
命の水?
スーパー大手のカイザース 白ビール(Franziskaner Weissbier)
写真4-8-4 写真4-8-5
一方わたしにとって「命の水」であるビールを調達しなければなりません(笑い)。ベルリンに着いた日、私はさっそくスーパー大手のカイザース(Kaiser's)に行って、お気に入りの白ビール(Franziskaner Weissbier)を買い込んでアパートの冷蔵庫に入れて毎晩飲みました。500ミリリットルでたった89セント(約90円)。発泡酒でもなく、第三のビールでもなく、本物のビールがこの値段。嬉しさのあまり涙が出そう。
アンペルマン
アンペルマンアンペルマン アンペルマン
写真4-8-6         写真4-8-7 写真4-8-8
ベルリンへ来たらやっぱりはずせません。今は女の子バージョンのアンペルフラウ(Ampelfrau)もあるらしい。
左:ホロコースト記念碑の近くの信号機。
右:宿からザヴィニープラッツ駅へ向かう途中にあった小さな雑貨屋さんのショーウィンドウ。
アンペルマン(Ampelmännchen)について、詳しくはWiki(※、日本語)に譲るとして・・・と書きかけて、いつもお世話になっているありちゅんさんのブログ(※、日本語)の方が遥かに詳しく楽し説明なのでこちらを参照なさって下さい。私も次回はアンペルマンの格好で写真を撮ってみますかね。青信号の時は青(というより緑)のトレーナーを着て緑の帽子を被り、赤信号の時は赤いトレーナーを着て赤い帽子を被れば万全かな。
アンペルマン・ラッピングのベロタクシー アンペルマンのショッピングバック
写真4-8-9 写真4-8-10
左:ブランデンブルク門の前に駐車していたアンペルマン・ラッピングのベロタクシー
右:クーダムのアンペルマン・ショップでエコバッグを買ったときに、商品を入れてくれたショッピングバッグ。これも捨てるにはもったいなくて、再利用することもなくお土産のひとつとして保存しています。
ベルリン国立美術館?
今回の旅行の時期と同じくして、「ベルリン国立美術館展(左画像)」が東京と福岡で開催。最初「アレ?」と思いました。ベルリンに「国立美術館」ってあったっけ、と。検索してみると「本展はベルリン国立美術館群のなかでも絵画館、ボーデ美術館、素描版画館の3館のコレクションにより、15世紀から18世紀までの400年にわたるヨーロッパ美術の歴史を、絵画、彫刻、素描作品(107点)を通じて紹介するもの。(展覧会情報、※日本語)」とあります。その3館とは、
●絵画館(Gemäldegalerie)は、博物館島から離れた旧西ベルリン・エリアのポツダム広場にあります。30年前にこの美術館で買った絵はがき数枚が手元にあります。
●ボーテ美術館は上で紹介したとおり。
●素描版画館(Kupferstichkabinett[銅版画展示室])は、上で紹介した新博物館の一部門らしい。
30年前は、絵画館、素描版画館とも西ベルリンのダーレム博物館の一部門でした。東西統一の過程に伴って、ベルリンの美術館・博物館群も再編統合されてきているようです。特定の収蔵品を見たい場合は、最新情報をチェックする必要があるようです。
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