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Eine Deutschlandreise 2013 ドイツ旅行 (2/5)
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Inhalt 目次
1 Bis Berlin ベルリンまで
2 Berlin ベルリン
3 Um Berlin ベルリン周辺
4 Heiligendamm~Köln ハイリゲンダム~ケルン
5 Um Köln ケルン周辺
2 Berlin ベルリン
3日目は日曜日。商店はほとんどが休みなので、ショッピングは外して、ブランデンブルク門付近→ドイツ連邦議会議事堂(国会議事堂)→中央駅→のみの市→旧東ベルリン→壁記録センター→チェックポイント・チャーリー博物館と、東西ベルリンの分断の歴史を駆け足でたどるコースをまわります。今日の天気予報は曇り、予想最高気温14度、最低気温7度。九州の3月中旬並。
2-1 Mitte ミッテ地区
2-2 Vom Bhf Zoo nach Bhf Alexanderpl. 動物園駅からアレキサンダープラッツ駅まで
2-3 Unter den Linden ウンター・デン・リンデン
2-4 Berliner Mauer ベルリンの壁
2-5 Potsdamer Platz ポツダム広場(アルカーデン) 4日目の夕
2-6 Hackesche Höhe ハッケシャー・ホーフ 5日目の夕
2-7 Nachwort あとがき
2-1 Mitte ミッテ地区
●ブランデンブルク門
写真2-1-1
本来なら今日たどるコースを真っ先にもってくるべきですが、日程調整して3日目になりました。宿の出発はちょっと早めの7時半。宿の近くのSバーン・アンハルター駅から2駅乗ってブランデンブルク門駅で降ります。
この写真は門の東側、つまり門の上にある彫刻「四頭馬車と勝利の女神ヴィクトリア」を正面から見る構図です。これまで西側から撮影していたので、東側から撮影したのは初めて。門の奥に観覧車みたいなものが見えます。あんなところにあったっけ? この謎は後ほど。
門へ向かう前に、ホロコースト記念碑に寄り道します。
写真2-1-2 写真2-1-3
左:ホロコースト記念碑側からブランデンブルク門方向を撮影。な、なんと道路を通行止めにして移動遊園地が出現していました。右に見えるクレーン車も遊具のひとつ。日本人の常識を覆す場所の使い方に驚きます。
右:ブランデンブルク門を西側から撮影。
●ドイツ連邦議会議事堂
写真2-1-4
今回は、屋上にあるガラスのドームへ登ります。ドーム見学は、とても人気が高いため予約制です。私が10日ほど前に予約したとき日中の時間帯は既に塞がっていて、日曜日の朝8:30という時間が取れました。つまり日程調整も、朝が早かったのもの、このドーム見学の予約日時の関係。
見学はネットで予約し、メールで送られてくる予約書をプリントアウトして持参します。受付時には身分証の提示(外国人ならパスポートなど)を求められ、手荷物検査(X線検査装置)があります。
入退場は、通用門などではなく、建物中央の正面玄関から堂々と。
写真2-1-5 写真2-1-6
エレベーターで一気に屋上へ。ドームの中は螺旋状のスロープになっていて、頂上まで登る間にベルリン市街の眺望が楽しめます。
左:足元に連邦首相府が、右手奥には中央駅舎が見えます。
右:ポツダム広場方向。ティーアガルテンの先にソニーセンターの上屋が見えます。
写真2-1-7 写真2-1-8
左:視線を下へ向けると、議場を覆う天窓。その周りには、建物の歴史などを示す案内板があります。10カ国語のオーディオガイドがあります。日本語はありません。
写真2-1-9
頭に王冠を頂く重厚な作りの塔。ネットには「インベリアル・クラウン」とあります。この建物がもともと帝政ドイツ時代の1894年に建てられた時代背景が伺えます。
●ベルリン中央駅
写真2-1-10
議事堂の後は西へ移動するため中央駅へ。
東西ベルリンに別れていた冷戦時代、東西ベルリンには、それぞれに長距離列車のターミナルがありました。西は下で紹介する動物園駅。東はベルリン東駅です。ドイツ再統一後、ベルリンの壁に近かった旧レールテ駅を完全に作り替えて全く新しい「中央駅」が2006年5月開業。ガラスを多用した斬新な外観。
ドイツ各地には歴史ある中央駅が多くあります。例えばミュンヘン中央駅(1839年開業)、フランクフルト中央駅(1888年開業)、シュトゥットガルト中央駅(1922年開業)など。しかしベルリン中央駅は、2006年5月に歴史上初めて名前が登場するのです。そして、町の顔とも言うべき中央駅の周りは、古くから「駅前商店街」が発達しているのが一般的ですが、ここは空き地が多く、今から新しい中央駅を中心とした町作りをしていくのでしょう。10年後、20年後、町の成長が楽しみ。
写真2-1-11 写真2-1-12
左:ベルリンの東西を結ぶ地上駅のホームがあります。ガラス張りの天蓋は、日本だったら夏の熱気で恐ろしい事になりそう。
右:ベルリンの南北を結ぶ地下駅のホームが見えます。そして地上階には日本で俗に言う「駅ナカ」。今日は日曜日ですが、駅ナカは開いています。
脱線して恐縮ですが、上で紹介したミュンヘン、フランクフルト、シュトゥットガルトの各中央駅は頭端式ホームを持つ「終着駅」と呼ぶにふさわしい駅です。平地にあって駅の構造が単純なので旅行者にもわかりやすく、旅情を誘います。ただ線路が行き止まりとなっているため、運用がしにくい面もあって、通過式ホームに作り替える構想も。フランクフルト中央駅を地下の通過式ホームに作り替える「フランクフルト21」計画は構想で終わり、同じく「シュトゥットガルト21」計画は、紆余曲折を経て進行中。これらの構想・計画からわかるように既存の駅を作り替えることは莫大なエネルギーを必要とします。それをベルリンは十字に交差する充実した路線をもつ真新しい「中央駅」を手に入れた訳ですから、他都市から見ればうらやましいでしょうね。
それでは中央駅からSバーンに乗って西へ2駅、ティーアガルテン駅へ向かいます。
●6月17日通りの蚤の市
写真2-1-13 写真2-1-14
左:ティーアガルテン駅のホームから見た蚤の市。土・日のみ開催。ドイツ語ではFloh(蚤)markt、Trödel(がらくた)markt。
右:ありとあらゆるものが通り沿いの露店が並んでいます。見て回るのが楽しい。
写真2-1-15 写真2-1-16 購入した記念品
写真2-1-17
ガラスの置物を弟と共に記念品として購入。ブランデンブルク門、テレビ塔、熊が立体的に浮かび上がります。同様のものがお土産品店にもありましたが、蚤の市がリーズナブルでした。ただ450グラムもあって重たいので、飛行機に乗って持ち帰るには考えものだと帰国時になって躊躇した次第。
右は皆様よくご存じの(と書いたら歳がバレバレですが)「リーサル・ウェポン2」DVD1ユーロ。ドイツ語字幕とドイツ語吹替えがあるので、1ユーロのドイツ語教材と思えば安いやと思って買いました。こっちは軽いし、最悪ディスクだけを持ち帰ればよいので、時間があれば同様の「教材」をもっと丹念に捜してみたかったです。
●シャルロッテンブルク門
写真2-1-18 写真2-1-19
蚤の市を進むと、車道を挟んで大きな二つの門が現れました。手元の日本語版ガイドブックには記載がありませんが、ただならぬ存在感があるため調べてみました。
Wiki.de(※、独語)他によれば、シャルロッテンブルク市の勢いを示すために、左の写真2-1-18の右側に見える外灯も含めネオバロック様式で1907/1908年に建設。
この道は、シャルロッテンブルク城(2012ドイツ家族旅行その4>シャルロッテンブルク城)へ続くことから城に関わる二人の銅像が掲げられており、向かって左手の門(写真2-1-18)は城主フリードリヒⅠ世、右側の門(写真2-1-19)は妃ゾフィー・シャルロッテの銅像だそうです。
2-2 Vom Bhf Zoo nach Bhf Alexanderpl. ツォー駅からアレキサンダープラッツ駅まで
●動物園駅
写真2-2-1 写真2-2-2
蚤の市の後は、ティーアガルテン駅へ戻り、西へ1駅の動物園駅へ。駅間700mほどなので歩いても苦痛ではありませんが、せっかっくベルリン・ウェルカムカードを買ったので、Sバーンで行きます。
左:動物園駅 (Bahnhof Zoologischer Garten)、通称ツォー駅 (Bahnhof Zoo)。冷戦時代西ベルリンのターミナルだったため、今なおこの駅名は強く印象に残っています。
『クリスチーネ・F~麻薬と売春の日々~』((Christiane F. - Wir Kinder vom Bahnhof Zoo、1981年、西ドイツ)という映画がありました。当時の実相を映したショッキングな内容と共に、原題に含まれる「われらツォー駅の子供たち」に示されるように舞台となったツォー駅に再び立てる嬉しさ。一方で当時の東西が対峙した緊張感を思い出して、平和なベルリンをこうやって縦横無尽に周遊できることに感激します。
右:さて気分をお気楽な旅行記に戻して(笑い)、旧東ベルリンの中心アレキサンダープラッツ駅まで向かいます。この区間は急ぐならSバーンや地下鉄もありますが、100番線の二階建バスで車窓を楽しむことにします。
●二階建バスの車窓から
写真2-2-3 連邦大統領官邸 写真2-2-4 世界文化館
バスは、ツォー駅を出発すると旧西ベルリンの目抜き通りを東へ進みます。ティーアガルテンを北上し、戦勝記念塔を過ぎると、連邦大統領官邸が見えてきました。
世界文化館 1981年
写真2-2-5 30数年前(再掲)

左:ベルビュー宮殿(連邦大統領官邸) 1786年、プロイセンのフェルディナント皇太子のために建てられ、現在は連邦大統領官邸として使われています。
右:世界文化館
右のグレー囲いの写真2-2-5は30年数前に撮影した写真(2012ドイツ家族旅行その4でも紹介)です。元もと、1957年アメリカの基金で建てられた国際会議堂で、30年前は庇が落下し閉鎖され、建物手前の池に水はありません。廃墟と化したみにくい姿をさらしています。
この撮影方向の写真を今回撮影することができました。今は本来の美しい姿に戻っています。
写真2-2-6 ウンター・デン・リンデン 写真2-2-7 ウンター・デン・リンデン
バスは上で紹介した連邦議会議事堂を過ぎると、旧東ベルリンの目抜き通りウンター・デン・リンデンに入ってきました。通りと交差する地下鉄6号線のフリードリヒ通り(Friedrichstraße)とフランス通り(Französische Straße)間が運行を休止して昨年の夏から大規模な工事中。道路も工事ヤードとして使い、大幅に交通規制中です。
写真2-2-8 フンボルト大学 写真2-2-9
左:フンボルト大学
右:旧西ベルリンでは廃止されてしまった路面電車を見ると、終点のアレキサンダープラッツ駅が近づいて来た実感がします。
2-3 Unter den Linden ウンター・デン・リンデン
終点でバスを降りて、ブランデンブルク門の方へ徒歩で観光やお土産品店に寄りながら向かいます。コースは成り行きです。TV塔やペルガモン博物館は入場待ちの行列ができていてパスしました。日曜日なので、夏の観光シーズンではなくとも多いみたい。
●テレビ塔とマリエン教会

写真2-3-1 30数年前
写真2-3-2
旧東ベルリンのランドマークだったテレビ塔は、今でもベルリンで最も高い、というかWiki.de(※、独語)によればドイツで最も高い構造物とのこと。建築技術の粋を集めた構造物と、歴史ある教会との組み合わせは、いつ見ても絵になります。30数年前と比べると、現在は車が多いですね。
写真2-3-3 赤の市庁舎 写真2-3-4 ペルガモン博物館
左:赤の市庁舎
写真2-3-5
があるなら他の色の市庁舎もあるの?と思ってしまいますが、Wiki(※、日本語)によれば、赤いレンガで造られたことからこのように呼ばれたとのこと。北ドイツでよく見るレンガ造建築物は、黒っぽいレンガを使ったりして色むらがありますが、この庁舎は確かに「赤」一色です。原料によってさまざまな色になり、赤は鉄分の色らしい。Wiki(※、日本語)によればこの建物は1869年に建てられて以来、紆余曲折があり、現在は市役所の役目を果たしているとのこと。
右:正面はベルガモン博物館。その手前は昨年夏も同様でしたが、運河に面して工事が行われています。Wiki.de(※、独語)によれば、「geplantes neues eingangsgebäude(新入場棟予定地)」と書いてあります。水が多くて地盤も悪そうだし難工事に見えます。
このように観光・ショッピングしながらブランデンブルク門方向へ歩いて行きました。
●ノイエ・ヴァッヘ

写真2-3-6 30数年前
写真2-3-7
ノイエ・ヴァッヘ(Neue Wache[新衛兵所])は、Wiki(※、日本語)等によれば、近くにあったプロイセン王国の宮殿・ベルリン王宮の衛兵所とナポレオン戦争勝利の顕彰を兼ねて新古典主義様式で1818年に建設。
左:30数年前は、東ドイツ時代でした。第二次世界大戦でほぼ完全に破壊された建物を、1960年「ファシズムと軍国主義の犠牲者のための追悼所」(Mahnmal für die Opfer des Faschismus und Militarismus)として復元。
右:現在は、「戦争と暴力支配の犠牲者のための国立中央追悼施設」(Neue Wache als zentrale Gedenkstätte der Bundesrepublik Deutschland für die Opfer des Krieges und der Gewaltherrschaft)として使われています。
●フリードリヒ大王騎馬像

写真2-3-8 30数年前
写真2-3-9
通りにフリードリヒ大王騎馬像(Reiterstandbild Friedrichs des Großen)があります。フリードリヒ大王とは第3代プロイセン王フリードリヒ2世で、ポツダムの世界遺産サンスーシー宮殿の城主(2012ドイツ家族旅行>サンスーシー宮殿と庭園参照)です。30年数年前は、後方から撮影しています。今回も同じ構図で撮影したかったのですが、工事中で同じ場所に立つことができず前方から撮影しました。左の30数年前の写真の右端に写っているネオルネッサンス風の建物は、左写真の左手に写っています。
●旧博物館

写真2-3-10 30数年前
写真2-3-11
博物館島で最も古い博物館で1830年に竣工。第二次世界大戦で甚大な被害を受け1966年に再建。
左:30年前は古美術品を展示。
右:現在は、古代ギリシャ、ローマ時代の彫刻などを常設展示。それにしても人の多いこと。
お昼はケバプ店
写真2-3-12 写真2-3-13
写真2-3-14
ウンター・デン・リンデンを西へ歩き、お昼は一旦宿へ戻ることにして、地下鉄U6号線で宿の近くのハレシェス・トアーHallesches Tor駅で降り、駅近くのインビス(ファーストフード)のケバプ店で昼に。
左:私たち兄弟はドナー・ケバプ(Döner Kebap im Fladenbrot mit Salat und Soße[二つに切ったパンに入ったドナー・ケバプ、サラダとドレッシング添え] このボリュームでたった3ユーロ)と瓶ビール。
右:甥っ子はハンバーガー、フライドポテトとコーラ。こちらはセットメニュー(Sternburger-Menü mit Pommes und 0,33L Getränk)で5.90ユーロ。
右の写真はこの店のメニュー。撮影してきたこのメニューを丹念に読むとトルコのピザなどもあり、できれば1ヵ月くらい滞在して、お手軽なので日常生活の中でいろいろな食べ物を試してみたいな。
写真2-3-15
宿に帰る途中、遊覧気球が見えました。
2-4 Berliner Mauer ベルリンの壁
午後は、甥っ子にいろいろ選択肢を示し、当人の希望によりベルリンの壁の痕跡をたどるコースとしました。アンハルター駅からSバーンで北駅まで5駅。ベルリンの壁記録センターを見て、フリードリヒシュトラーセ駅まで戻り、チェックポイント・チャーリー博物館へ。その後宿まで歩いて戻ります。
写真2-4-1(30数年前)
この写真は、今を遡ること30数年前の1981年9月27日に撮影。まさしくベルリンの壁が「稼働」していた時。旧西ベルリンから東ベルリンを撮影しています。無駄に広い緩衝地帯に見えますが、当時はトンネルを掘って逃げる人や、強行突破を試みる人もいたので、東ドイツ当局にしてみれば、必要な空間だったのでしょう。壁が落ちたのが撮影から8年後の1989年11月10日。撮影当時、壁は永遠に続くような気がしていたので、急展開ぶりに驚いたものです。
この写真のビフォー・アフターも撮影したいのですが、今回の旅行では時間切れでした。では、現代へ戻ります。
●幽霊駅の名残を留める北駅
写真2-4-2
ベルリンの壁で分断されていた冷戦時代。ベルリン鉄道網も分断されていました。問題は西ベルリンを走る路線でありながら途中東ベルリン内を通る路線です。東ベルリン内の駅は通過扱い(唯一フリードリヒシュトラーセ駅だけは例外)で、薄明かりの中、ホームに兵士が立っていた記憶があります。
そんな閉鎖されて不気味な駅をいつしか「幽霊駅(Geisterbahnhof)」と呼ぶようになったそうです。詳しくはWiki(※、日本語) で。
この北駅も1961年8月から1990年9月まで閉鎖されていました。亀甲文字の出口を示す案内板が閉鎖される以前のまま残されており、タイムスリップしたような気分になります。
写真2-4-3
駅には当時の資料が多数掲示されています。左の写真と中央の路線図を次で紹介します。
写真2-4-4 写真2-4-5
左:説明文によれば、1961年8月13日東西ベルリン間の交通が遮断された直後のシュタットミッテ(都心)駅の様子。この駅も後の幽霊駅なので東の兵士が封鎖しています。
右:壁が築かれた当時の地下鉄路線図。赤い路線は運休。一方南北を結ぶ路線は、東ベルリン内を通過扱い(フリードリヒシュトラーセ駅を除く)で運行。詳しくは、ベルリンの路線図(※、独語)で。
写真2-4-6
幽霊駅の様子を示す説明板。左にホームに立つ兵士が写っています。当時、地下鉄の車両から見た様子そのものです。
●ベルリンの壁記録センター
写真2-4-7 写真2-4-8
北駅を出て、東へ歩くと壁が見えてきます。道路を挟んだ対面に壁記録センター。写真はその展望台からの眺め。昨年夏はこの展望台に登るだけでしたが、今回は右写真の右側にある緑地を探索しました。
写真2-4-9
追悼記念の窓」壁を越えようとして命を落とした犠牲者が掲示されています。
写真2-4-10
GEDENKSTÄTTE
für die Opfer des Zeiten Weltkriegs und der deutschen Teilung,
Es soll nicht durch Heer oder Kraft,
sondern duch meinen Geist geschehen,
spricht der HERR Zebaoth  Sach 4,6
記念の地
第二次世界大戦とドイツ分断の犠牲者に捧げる。
武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。6章4
碑に書いてある文章を書き出しました。
左:斜体は、調べたところ旧約聖書の1つゼカリヤ書の一節。
右:斜体の訳文は、ネットから借用。
写真2-4-11 写真2-4-12
左:追悼の十字架
案内板(独、英語)によれば、壁ができる前は墓地で、壁に緩衝帯を設けるために、墳墓約1,000基を移転させる事となったそうです。しかし、第二次世界大戦の爆撃で亡くなった方々の共同供養墓は埋葬者が多いため移転させることができず、埋葬地の上に壁の施設を設置。それを記憶に留めるために十字架を立てたとのこと。
右:切り取られた壁がモニュメントのように並んでいます。
チェックポイント・チャーリー博物館(壁博物館)
写真2-4-13
ベルリンの壁記録センターを見学した後、宿の近くへ戻ってきました。今日最後はチェックポイント・チャーリー博物館(壁博物館)を見学。
写真2-4-14 写真2-4-15
復元された検問所の建物の周囲は、大勢の観光客であふれています。
博物館内の手作り感あふれる展示は、多くのパネルにぎっしと文字が書き込まれています。実際に東から逃げてきた時に使われたカバンや車などが所狭しと展示スペースにあふれていました。
右:夕食は宿の1階にあったイタリアン・レストランで。
2-5 Potsdamer Platz ポツダム広場(アルカーデン)
●時代の最先端を行くショッピングモール
4日目からレンタカーを借りてベルリン郊外を回りました。4日目に回ったアウトシュタットは次のページ(3-1 アウトシュタット)で紹介するとして、夕方ベルリンへ帰って来てから回ったところを紹介します。
宿からポツダム広場まで歩き、地下鉄でクーダムへ。そこで夕食を取って宿へ戻ります。
写真2-5-1 写真2-5-2 ショッピングモールのアルカーデン
宿の駐車場にレンタカーを止めて、ポツダム広場まで約1km、15分ほど歩いて向かいました。突然、広い公園(ティラ=デュリーウーパーク)の両側に現代建築が建ち並ぶ景色が飛び込んできます。
右:ショッピングモールのアルカーデン公式サイト(※、独語)によればH&M、Puma、アンペルマン・ショップ、大型電気店サターン、スーパー・カイザースなど小売店90店舗、ハーゲンダッツ、マック、スタバ、サブウェイ、魚介類を素材としたファーストフード・ノルトゼー、「過労死」という名の寿司バーなど飲食店34店舗が入店。バラエティ豊かな店舗群に感動します。また、洗練された計画はいかにもドイツ人らしい。
それと仕事柄複雑な形状の建物に圧倒されました。とても変化に富んでいて見ているだけで楽しくなる建物です。ただドイツだからいいわけで、これが日本だと雨仕舞いや直射日光対策で建設計画には手間がかかるため、なかなかここまで冒険しづらいな~と感じます。
写真2-5-3 写真2-5-4
公園の東側にも真新しい建物が並んでいます。
写真2-5-5 ヴィッテンブルク広場駅 写真2-5-6
左:ポツダム広場駅から地下鉄に乗ってクーダム駅のひとつ手前ヴィッテンブルク広場駅まで。古風な駅舎が気になってパチリ。直ぐ近くに百貨店カー・デー・ヴェーがあります。今日の夕食は、2日目の3時の休憩に立寄ったこの百貨店の最上階にあるセルフ式レストラン「ヴィンター・ガルテン(冬の庭)」にしました。
右:前後しますが、夕食後地下鉄1号線に乗って宿の近くのハレッシェス・トア駅(Hallesches Tor)に到着したとき(地下鉄と言いつつ、この付近は高架)、車窓に中世の豪商を彷彿とさせるような建物があったので思わずシャッターを切りました。調べた限りでは、歴史的背景は分かりませんでした。現在は、企業経営コンサルタント会社の社屋として使われているようです。
写真2-5-7 写真2-5-8
左:今日の夕食。食い道楽ブュッフェ(Schlemmerbuffet)と、大人はビール、甥っ子はコーラです。
写真左下は甥っ子の皿。甥っ子には、ビュッフェだから好きなものを選んでと言ったら、私が選んだものでよいと言うのです。こりゃ困った。昨年夏次女を連れてきたときは、自分でさっさと選んでくれましたが・・・ で、日本人の口に合いそうなものを選んでみました。美味しく食べてくれたの一安心。でも、甥っ子の気持ちもよくわかるな~ なんだか見慣れないものが並んでいるので、どれが美味しいのかよくわからず、逆の立場だったら私も言ったかも。グルメの人は鼻が利くと言うか見ただけで味が分かるみたいですが、私は全くその方面の嗅覚がないですね。甥っ子とは似たもの同志かな。
右:そのグルメじゃない私の夕食。右のグーラッシュだけでも十分かなと思いましたが、食い道楽ビュフェの野菜類を少々足してみました。
各人の皿が9ユーロ前後、パン二つ、ビール2本、コーラで41.29ユーロでした。ちなみに今日は私の誕生日。誕生日にベルリンで乾杯なんて嬉しい限り。
2-6 Hackesche Höhe ハッケシャー・ホーフ
●過去と現代が交錯する混沌としたエリア
5日目もレンタカーで郊外(3-2 ザクセンハウゼン強制収容所3-3 フィルムパーク・バーベスベルク)へ出たので、宿へ帰って来てから出かけたベルリン市内の場所を紹介します。
今日のお目当ては、ハッケシャー・ホーフ。博物館島の北東にあります。
写真2-6-1 写真2-6-2
Sバーンのハッケシャー市場駅(Bf Hackescher Markt)を降りると、真っ先に目に飛び込んで来るのがこの風景。雑然とした雰囲気が、これからの街探訪に期待が膨らみます。写真は1882年開業当時の面影を残す駅舎
写真2-6-3 写真2-6-4 ハーゲンダッツ
左:ヴァラエティショーが上映されるカメレオン・ヴァリエテを事前にネットで予約。ショーの時間まで一帯を散策しました。甥っ子(左)と私。正面には「無印良品」の看板。
右:ハーゲンダッツのリアル店舗。脱線してしまいますが、こちらの記事(※、日本語)ほかによれば日本にリアル店舗はもう無くなってしまったんですね。元々日本の西の端では縁が無かったので気にしていませんでしたが、無くなってみると寂しい。と、会社の後輩に話したら、「S友の1階にありましたよね。」との返事。そう言われてみればかなり昔食べた記憶が有ったなと薄ら薄ら思い出しました。
公式サイト(※、独語)によればドイツには50店舗以上あるらしく、ベルリンには7店舗。フランクフルト国際空港にもターミナル1(ANAやルフトハンザが発着。ちなみにJALはターミナル2)のトランジットエリア(出発ロビー内)にあります(2013年5月現在、フランクフルト国際空港でもらった小冊子で確認)。
写真2-6-5 写真2-6-6 イナリ巻き
左:金色に輝くアンペルマンのレストラン・カフェ
写真2-6-7
。立ち寄る余裕はありませんでしたが、アンペルマン由来のメニューがあるのかな。
右上下:駅前のテラスにカゴ椅子がありました。ちょっと休憩しようかと座った弟親子。メニューを見たら「イナリ巻き2.5ユーロ」が。え~、イナリを巻く?でどんなものか是非食べてみたいと思い注文して出てきたのがこれ。具が油揚げです。油揚げは外側にある「常識」をもろくも打ちくだかれてしまいました。これだから海外旅行は面白い。味はと言うと、ゲテモノ食いかと予防線を張ったものの、日本で食べるのと全く違和感はなかったですね。ガリ(生姜)、醤油、わさびとも日本と変わりません。地球が小さくなったことを実感した瞬間でした。
写真2-6-8 ハッケシャー・ホーフ
前段はこれくらいにして、ホーフへ行きます。ガイド本によれば、ホーフとは複数の建物の中庭に面した部分に店舗や飲食店が集まっている複合文化施設。ドイツ語のつづりからも分かるように、原語では「ハッケシェ・ホーフェ」と複数形。ホーフ(Hof)はこの場合「中庭」という意味なので、中庭が八つ連なっていることかららしい。
写真2-6-9 写真2-6-10
左:映画館もあります。Ginger Rosaは「邦題:シンジャーの朝 さよなら私が愛した世界」オフィシャルサイト(※、日本語)
右:中庭のひとつ。この落ち着いた雰囲気が、このホーフの価値を高めていると感じます。
写真2-6-11
これも中庭のひとつですが、写真だけでは、なかなかこの一角の魅力を伝えられないもどかしさを感じます。Wiki.de(※、独語)に配置図があり、八つの中庭を囲むように店舗が並んでいます
迷路のような路地、その先にある中庭。この先に何があるのだろうという冒険心を刺激してくれます。ここを見学して感じることは、旧西ベルリンのショッピングストリート・クーダム、再開発されたポツダム広場とも常識の線上。ホーフこそベルリンの魅力かも。それではカメレオン・ヴァリエテへ行きましょう。
写真2-6-12 写真2-6-13
左:カメレオン・ヴァリエテの店内。日本の西の果てでは、このようなジャンルの店が無いので、どう書いたらよいか表現に悩みます。ガイド本によれば「バラエティショーが上演される小劇場。ドリンクを片手に、大人のエンターテインメントが楽しめる」とあります。
ショーは撮影禁止なので、雰囲気を少しでも感じて頂けるような写真をピックアップしました。甥っ子が持参したスマホで写真を撮っています。正面がステージ。サーカスまがいのアクロバティックなショーは、言葉不要で万人が楽しめるものでした。
右:ウェーターが注文を取りに来ます。ワンドリンクでもかまわないのですが、食事も注文
手前:Ravioli Hausgemacht mit Artischocken-ricotta-Füllung in Buttercreme und gerösteten Pinienkrenen
朝鮮アザミとリコッタ(羊乳から作るチーズ)を詰めた自家製ラビオリ(イタリア風餃子)、バタークリームと炒ったマツの種子 11.50ユーロ
奥:Gemischter Antipasti-Teller 
(Champignons mit Rosmarin, Zucchini mit Kapern, Karotten mit Sesam, Eingelegte, Getrocknete Tomaten, marinierte Oliven, Salami pikant, San-Daniele-Schinken, Pecorino)
前菜盛り合わせ
ローズマリー添えのマッシュルーム、ケイパー(注1)添えのズッキーニ(西洋かぼちゃの一種)、ゴマ添えの人参、乾燥トマト、オリーブのマリネ、ピリ辛サラミ、サン・ダニエーレ・ハム(注2)、ペコリーノ(チーズ)の盛り合わせ 12,50ユーロ
注1:セイヨウフウチョウボクのつぼみの酢漬け
注2:Wikiのプロシュット・ディ・サン・ダニエーレ(※、日本語)参照
四苦八苦して訳してみましたが、イタリア料理みたいで全く自信がありません。美味しくはありましたが、グルメじゃない私には豚に真珠みたい。
帰りはツォー駅前のカレーソーセージ店に立ち寄り
写真2-6-14 2012年8月撮影 写真2-6-15
帰りは、Sバーン、Uバーンを乗り継いで4駅ですが、途中区間が工事中で運休しているので、ツォー駅を経由。もっと近い経由地もありますが、今となってはこのコースを選んだ理由を覚えていません。
ツォー駅で駅前にあるカレーソーセージ店に立ち寄りました。
ガイドブックによればベルリンでカレーソーセージのNo.1はコノプケ(Konnopke's Imbiss)。この店はNHK教育TVドイツ語講座でも紹介されていたので、正真正銘のNo.1でしょう。ただ中心部からはやや外れるので行きにくいですね。
そしてNo2が旧西ベルリンで人気No.1のカリー36。今回立ち寄ったお店です。ガイド本によれば、本店は宿から少し南へ行ったところにあるので、今回立ち寄った所は支店らしい。
左:お店の全体像が分かる写真。8ヵ月前2012年8月に写した写真にありました。
右:私と甥っ子が注文しています。ところでガイド本によれば、
例えば「Currywurst ohne Darm, schaf, mit Pommes mit Mayo, bitte」というふうに注文する。
とあります。直訳すれば、「腸詰めではないカレーソーセージ、辛く(カレーパウダーを多めで)、マヨネーズをかけたフライドポテトを添えて頂戴」でしょうか。このフレーズをサラサラと言えたら、立派なベルリンっ子でしょうね。
ところで私が住んでいた30数年前は、フライドポテトにはケチャップだけ。今やケチャップとマヨネーズをたっぷりかけるのが定番らしく、フライドポテトを注文すると必ず「マヨ?」と聞かれます。
もともとフライドポテトは高カロリーなので、更にマヨネーズをプラスすることは、美味しいまずいの前に、ちょっと気が引けて、今回の旅行でも食べ慣れたケチャップだけにしました。
2-7 Nachwort あとがき
●歴史その1
ベルリンを歩いて歴史をひもとくと、だんだんと1880年前後、森鴎外が留学していた時代の風景がよみがえります
現在復元が予定されているベルリン王宮は当時偉容を誇り、博物館島5館のうち、ボーテ博物館、ペルガモン博物館は建設前。王宮の対面に建つベルリン大聖堂は建替え前の古典様式。西へウンター・デン・リンデンを進むと、ブランデンブルク門があり、その右手の国会議事堂は建設中。ブランデンブルク門を出ると、王家の狩猟場である広大なティアガルテンが広がり、ティアガルテンの中心に建つ戦勝記念塔(ジーゲスゾイレ)は、この時代まだ国会議事堂の前。
更に西へ進むとドイツで最初の動物園であるベルリン動物園が賑わい、カイザー・ヴィルヘルム記念教会は建設前。
このように辿っていくと、130年ほど前もベルリンは大きく発展を遂げていたことがわかります。
●歴史その2
写真2-7-1 30数年前

次は実際に歩いた30数年前と比べて、劇的な変貌ぶりに驚きます。右は当時、観光バスの車内から撮影した東ベルリン市内の様子。旧型の路面電車、小型乗用車トラバントなどが写っています。これ以外の写真を見ても、全く別の都市になったみたい。
それとベルリン壁の跡地。ポツダム広場やベルリン中央駅周辺など、生き物のようにダイナミックにまだまだ変わってゆくことでしょう。
●おあずけ
2年続けてベルリンへ行きましたが、見所が多くて時間切れ。DDRミュージアムや世界遺産の集合住宅などは次回以降の楽しみにとっておきます。それと30数年前に撮影した写真と同じ構図で撮影するビフォー・アフターもまだ写真が残っています。
今のところ、日本からの団体客の一般的な観光ルートにベルリンは入っていませんが、ブランデンブルク国際空港が開港した暁には、日本から直行便が飛ぶような予感がします。そうしたら観光客が増えるでしょう。でも昨年夏の観光シーズンは、人が多くてどこの観光地・博物館も入場待ちの長い行列だったのに、これ以上増えたらどうなるんだろうと、恐ろしくなります。でも、それだけ人が集まるほど、興味深い都市には違いないですね。
●行き違い
ベルリンには日本びきのドイツ人の友人がいます。気をつかわせてはと思い、旅行の直前に連絡したら、日本に来ていると。お互い無い物ねだりで、相手の国が好きみたい。結局私が旅行から帰った後、その友人はまだ日本にいたので日本で会いました。
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